本論文は『人間認識起源論』(『起源論』と略)(1746)から『感覚論』(1754)にかけてのコンディヤック哲学の変化の内容とその変化の論理を考察する。
第一部-『起源論』
まずこの作品の主題と方法を、その導入部に主に依拠することで浮き彫りにする。この主題解明と後の変化を導きの糸として、『起源論』のかなり忠実な読解を行う。それとともに『起源論』での間違いについてのコンディヤック自身の証言、当時前提にされている概念などを考慮しながら、『起源論』の理論的困難を取り出す。
『起源論』の主題と方法:人間精神が観念連合(人為的記号の使用)という原理によって能動的になることを示すために、人間精神の起源に遡り、その生成を(その知性の働きに限定しながら)辿ること。それによって新たな真理獲得の方法を得ること。以上を行うために『起源論』は、経験論的な観察・検証、既存の学から導き出された方法的概念(原理、体系など)に依拠する。
議論の骨格:受動的状態での人間精神はいまだ動物一般の魂のおかれた状態と変わらない。欲求に導かれて形成された観念連合の鎖(過去の観念の総体)の中から、欲求が導く想像力によって、自己保存に必要な知識を想起しながら、生存する。想起を自由に行えず、外界、欲求に従属したままである。人的交流において人為的記号を作ることで、人間精神は能動的になる。ここで人間固有の状態に移る。欲求に代わって主導的地位についた意志が観念連合に人為的記号をもたらすことで、それを量的・質的に変化させる。過去をありのままに想起する想像力に代わって、記号的想起に他ならない記憶力が主導的役割を果たすに至る。
理論的問題点:(1)認知。(2)観念連合。(3)想起の意志。(4)観念連合。(5)自由な想起。
第二部-『感覚論』
『感覚論』を扱う第二部でも、まず導入部に主に依拠して、作品の主題と方法を明るみに出す。この主題解明と第一部で取り出された『起源論』の議論を踏まえながら、同様に『感覚論』のかなり忠実な読解を試みる。人間精神の働きについていかに見解を改めたかを見ることが主眼となる。
主題と方法:『感覚論』は、その起源である感覚から出発して、意志も含めた人間精神全体の生成を辿ることを試みる。感覚は学習しないという『起源論』の見解を改めたために、『感覚論』は『起源論』以上に精神の起源へと遡る必要が生じる。このために仮説への依拠が大きくなる。更に感覚相互の関連を考察するために感覚を分割し、立像の仮説に依拠することになる。原理、体系などの方法的概念は変わらない。
議論の骨格:立像は、経験論的還元を受けた(生得的なものも経験的獲得物もすべて取り除かれた)人間と条件は同じである。立像には感覚が一つずつないし複数組み合わせて与えられる。触覚以外の感覚を与えられても、外的対象の存在を知ることはないが、精神に可能な働きはすべて行使できるようになる。触覚だけが運動も伴うことで外界の存在を教える。
個々の感覚には様々な度合いの快苦が伴い、この快苦が生成の原理になる。感覚から注意が生ずると、記憶力、比較、判断という一連の働きもほとんど自動的に生ずる。これは精神の能動性の端緒である。ここで観念連合も(少なくとも二つの観念)生じる。観念連合の鎖を構成する個々の観念は快苦という情動性によって価値づけられている。新たな感覚が契機になって、快苦の度合いの差異に基づき、過去の観念の全体から、欲求の対象が想起される。その対象に向けて欲望が生じる。つまり既得の能力が発動されることになる。ここで精神は完全に能動的になる。触覚を与えられて、外的対象の存在を知る前に、既に精神は能動的になる。
第三部-変化の諸相
第一章、意識・無意識:ロックの議論を引き継ぎながら、『起源論』でコンディヤックは経験論(生得性を認めないこと)を、無意識を認めないものと理解する。この観点から哲学が構築され、無意識の知覚、無意識的判断、無意識的記憶、生得能力が排除される。『起源論』で既に見られた(1)知覚(感覚)、(2)注意(気づく)の違いの重要性がクラメルとの議論を通して強く意識される。『感覚論』では、経験を越えて起源(感覚)に遡ることから、実質的に無意識の領域に入り込む。こうして知覚(感覚)=意識という考え自体は必ずしも検証可能というわけではなくなり、その議論は重要性を失う。デカルトは思惟即ち意識という近代を特徴づける見解を抱懐しながら、生得性を認めたため潜在性まで精神から排除することができない。コンディヤックは生得性(潜在性)、無意識性をすべて排除し、思惟即ち意識という考えを徹底させる。
第二章、自由と決定論:この時代支配的になる広義の(経験論も含む)合理主義的潮流の中、自然(物質)にであれ、精神にであれ、法則性即ち決定性を認める傾向が強まる。伝統的な「自由意志」を唱える立場の旗色は益々悪くなる。『起源論』でも既に精神の自由にとって望ましくない議論がなされる。機会因とはいえ外的対象が引き起こす知覚から出発して、精神の知的働きは因果的連鎖に従うかのように生成する。しかも言語、精神の能動性は外的条件(他の人間との交流)に左右されて生成する。しかしこの作品では、精神の能動性を生み出す意志は、知性の働きから独立しているとされ、この意志に基づいた知性の働きこそが自由を作り出す。『起源論』ではこのように未決定性ではないが、意志的作用に自由の本体を見て、かろうじて精神の自由の領域を守る。『感覚論』ではこの意志(欲望)さえも、あたかも因果的連鎖に従うかのように、先行する精神の働きによって決定されて生成する。この作品で精神の自由は、意志の決定性というより、知性による熟慮に求められる。
第三章、モリヌー問題:前近代(アリストテレス・スコラ、古代原子論)では、色などの第二性質的観念までも物体にあるとされたのに対して、機械論(延長の特権化)の進展に後押しされてデカルトは、延長などの第一性質的観念を物質に、第二性質的観念を精神に配する、近代を特徴づける切り分けを行う。視覚には次なる特異性がある。物体(三次元的延長)から反射した光が視覚器官に伝わり、網膜映像(二次元)が結ばれる。これを原因として視覚の直接的対象(光・色)が生ずるが、実際の視覚情報は三次元的である。これを説明するに合理主義者デカルトは経験に依拠しない「自然幾何学」(生得的)をもってするが、経験論者ロックは、触覚経由の観念との習慣的(経験的)結合をもってする。ここからロックは「モリヌー問題」にノーと答える。『起源論』はデカルト、ロックに反して、視覚の直接的対象(光、色)から直接的に三次元的延長が導き出されるとし、感覚論的懐疑の可能性を排するという条件つきで、モリヌー問題に然りと答える。『感覚論』はこれを改めて、視覚の直接的対象から延長性を限りなく奪い、ほとんど面でさえないとし、モリヌー問題への解答を一変させる。この変化を支える論理について次の三点を指摘する。(1)経験論的立場から起源(感覚)へできる限り遡及すること。(2)機械論的前提に基づき、網膜映像(二次元)から視覚経由の観念(三次元)を説明すること。(3)ダランベール的二元論あるいは当時の実体概念に従い、非延長的・内在的精神から出発すること。
結論
『起源論』から『感覚論』にかけての変化について次の四点を指摘する。
(1)感覚:これについては第三部・第三章で述べた。
(2)記号:人間精神は、人為的記号を行使することで能動的になる。これが『起源論』の中心的命題であったが、これは、記号は慣れ親しむことで、自由に想起できるようになるということを前提にしている。しかるに『起源論』は自由に想起できない精神の在り様から出発して、自由な想起が可能になる条件を示していない。ここで理論的困難が生じる。『感覚論』はこれを改めて、記号や慣れ親しみという条件なしに、精神の能動性(記憶、欲望)を認めることになる。
(3)精神の働き:A記憶。『起源論』の理論的困難はいずれも想起に関わる。『起源論』では、現象主義的、記述主義的観点から、想起は頻繁に生じていないとした。しかし経験論を理論的に突き詰めると、想起は頻繁に生じている必要がある。またコンディヤックの哲学的前提に従うなら、想起は意識、思惟(精神への現前)に他ならない。ここから理論的困難が生じ、『感覚論』では『起源論』の想起理論を改める。しかし『感覚論』のそれも問題がないわけではなく、後のコンディヤックは、記憶よりも分析という概念に依拠して、生成を論ずることになる。B欲求、意志。『起源論』では、欲求とその対象とが切り離されていることから理論的困難が生じ、『感覚論』は欲求、即ちその対象の想起とする。欲求はこのように知性化され、『起源論』では知性の働きから独立していたが、これを改めることとなる。欲求、欲望、意志は、感覚の受動性と記憶の能動性の双方から生成するのである。
(4)形而上学:コンディヤックは常に形而上学(存在論)的言明において慎重で本質は不可知とするが、精神と物体の存在を認める点で終始一貫している。更に精神が物体に還元されないこと、物体の実在的性質に延長が存在しないこと、これらが主張されるが、両者はお互い矛盾しかねないものを孕む。『感覚論』は、ル・ロワの考えるような実在論の論証というよりも、神学的配慮(神の単一性)から、精神、物体のいずれからも、延長(多様性)という実在的質を取り除こうという試みに見える。
第一部-『起源論』
まずこの作品の主題と方法を、その導入部に主に依拠することで浮き彫りにする。この主題解明と後の変化を導きの糸として、『起源論』のかなり忠実な読解を行う。それとともに『起源論』での間違いについてのコンディヤック自身の証言、当時前提にされている概念などを考慮しながら、『起源論』の理論的困難を取り出す。
『起源論』の主題と方法:人間精神が観念連合(人為的記号の使用)という原理によって能動的になることを示すために、人間精神の起源に遡り、その生成を(その知性の働きに限定しながら)辿ること。それによって新たな真理獲得の方法を得ること。以上を行うために『起源論』は、経験論的な観察・検証、既存の学から導き出された方法的概念(原理、体系など)に依拠する。
議論の骨格:受動的状態での人間精神はいまだ動物一般の魂のおかれた状態と変わらない。欲求に導かれて形成された観念連合の鎖(過去の観念の総体)の中から、欲求が導く想像力によって、自己保存に必要な知識を想起しながら、生存する。想起を自由に行えず、外界、欲求に従属したままである。人的交流において人為的記号を作ることで、人間精神は能動的になる。ここで人間固有の状態に移る。欲求に代わって主導的地位についた意志が観念連合に人為的記号をもたらすことで、それを量的・質的に変化させる。過去をありのままに想起する想像力に代わって、記号的想起に他ならない記憶力が主導的役割を果たすに至る。
理論的問題点:(1)認知。(2)観念連合。(3)想起の意志。(4)観念連合。(5)自由な想起。
第二部-『感覚論』
『感覚論』を扱う第二部でも、まず導入部に主に依拠して、作品の主題と方法を明るみに出す。この主題解明と第一部で取り出された『起源論』の議論を踏まえながら、同様に『感覚論』のかなり忠実な読解を試みる。人間精神の働きについていかに見解を改めたかを見ることが主眼となる。
主題と方法:『感覚論』は、その起源である感覚から出発して、意志も含めた人間精神全体の生成を辿ることを試みる。感覚は学習しないという『起源論』の見解を改めたために、『感覚論』は『起源論』以上に精神の起源へと遡る必要が生じる。このために仮説への依拠が大きくなる。更に感覚相互の関連を考察するために感覚を分割し、立像の仮説に依拠することになる。原理、体系などの方法的概念は変わらない。
議論の骨格:立像は、経験論的還元を受けた(生得的なものも経験的獲得物もすべて取り除かれた)人間と条件は同じである。立像には感覚が一つずつないし複数組み合わせて与えられる。触覚以外の感覚を与えられても、外的対象の存在を知ることはないが、精神に可能な働きはすべて行使できるようになる。触覚だけが運動も伴うことで外界の存在を教える。
個々の感覚には様々な度合いの快苦が伴い、この快苦が生成の原理になる。感覚から注意が生ずると、記憶力、比較、判断という一連の働きもほとんど自動的に生ずる。これは精神の能動性の端緒である。ここで観念連合も(少なくとも二つの観念)生じる。観念連合の鎖を構成する個々の観念は快苦という情動性によって価値づけられている。新たな感覚が契機になって、快苦の度合いの差異に基づき、過去の観念の全体から、欲求の対象が想起される。その対象に向けて欲望が生じる。つまり既得の能力が発動されることになる。ここで精神は完全に能動的になる。触覚を与えられて、外的対象の存在を知る前に、既に精神は能動的になる。
第三部-変化の諸相
第一章、意識・無意識:ロックの議論を引き継ぎながら、『起源論』でコンディヤックは経験論(生得性を認めないこと)を、無意識を認めないものと理解する。この観点から哲学が構築され、無意識の知覚、無意識的判断、無意識的記憶、生得能力が排除される。『起源論』で既に見られた(1)知覚(感覚)、(2)注意(気づく)の違いの重要性がクラメルとの議論を通して強く意識される。『感覚論』では、経験を越えて起源(感覚)に遡ることから、実質的に無意識の領域に入り込む。こうして知覚(感覚)=意識という考え自体は必ずしも検証可能というわけではなくなり、その議論は重要性を失う。デカルトは思惟即ち意識という近代を特徴づける見解を抱懐しながら、生得性を認めたため潜在性まで精神から排除することができない。コンディヤックは生得性(潜在性)、無意識性をすべて排除し、思惟即ち意識という考えを徹底させる。
第二章、自由と決定論:この時代支配的になる広義の(経験論も含む)合理主義的潮流の中、自然(物質)にであれ、精神にであれ、法則性即ち決定性を認める傾向が強まる。伝統的な「自由意志」を唱える立場の旗色は益々悪くなる。『起源論』でも既に精神の自由にとって望ましくない議論がなされる。機会因とはいえ外的対象が引き起こす知覚から出発して、精神の知的働きは因果的連鎖に従うかのように生成する。しかも言語、精神の能動性は外的条件(他の人間との交流)に左右されて生成する。しかしこの作品では、精神の能動性を生み出す意志は、知性の働きから独立しているとされ、この意志に基づいた知性の働きこそが自由を作り出す。『起源論』ではこのように未決定性ではないが、意志的作用に自由の本体を見て、かろうじて精神の自由の領域を守る。『感覚論』ではこの意志(欲望)さえも、あたかも因果的連鎖に従うかのように、先行する精神の働きによって決定されて生成する。この作品で精神の自由は、意志の決定性というより、知性による熟慮に求められる。
第三章、モリヌー問題:前近代(アリストテレス・スコラ、古代原子論)では、色などの第二性質的観念までも物体にあるとされたのに対して、機械論(延長の特権化)の進展に後押しされてデカルトは、延長などの第一性質的観念を物質に、第二性質的観念を精神に配する、近代を特徴づける切り分けを行う。視覚には次なる特異性がある。物体(三次元的延長)から反射した光が視覚器官に伝わり、網膜映像(二次元)が結ばれる。これを原因として視覚の直接的対象(光・色)が生ずるが、実際の視覚情報は三次元的である。これを説明するに合理主義者デカルトは経験に依拠しない「自然幾何学」(生得的)をもってするが、経験論者ロックは、触覚経由の観念との習慣的(経験的)結合をもってする。ここからロックは「モリヌー問題」にノーと答える。『起源論』はデカルト、ロックに反して、視覚の直接的対象(光、色)から直接的に三次元的延長が導き出されるとし、感覚論的懐疑の可能性を排するという条件つきで、モリヌー問題に然りと答える。『感覚論』はこれを改めて、視覚の直接的対象から延長性を限りなく奪い、ほとんど面でさえないとし、モリヌー問題への解答を一変させる。この変化を支える論理について次の三点を指摘する。(1)経験論的立場から起源(感覚)へできる限り遡及すること。(2)機械論的前提に基づき、網膜映像(二次元)から視覚経由の観念(三次元)を説明すること。(3)ダランベール的二元論あるいは当時の実体概念に従い、非延長的・内在的精神から出発すること。
結論
『起源論』から『感覚論』にかけての変化について次の四点を指摘する。
(1)感覚:これについては第三部・第三章で述べた。
(2)記号:人間精神は、人為的記号を行使することで能動的になる。これが『起源論』の中心的命題であったが、これは、記号は慣れ親しむことで、自由に想起できるようになるということを前提にしている。しかるに『起源論』は自由に想起できない精神の在り様から出発して、自由な想起が可能になる条件を示していない。ここで理論的困難が生じる。『感覚論』はこれを改めて、記号や慣れ親しみという条件なしに、精神の能動性(記憶、欲望)を認めることになる。
(3)精神の働き:A記憶。『起源論』の理論的困難はいずれも想起に関わる。『起源論』では、現象主義的、記述主義的観点から、想起は頻繁に生じていないとした。しかし経験論を理論的に突き詰めると、想起は頻繁に生じている必要がある。またコンディヤックの哲学的前提に従うなら、想起は意識、思惟(精神への現前)に他ならない。ここから理論的困難が生じ、『感覚論』では『起源論』の想起理論を改める。しかし『感覚論』のそれも問題がないわけではなく、後のコンディヤックは、記憶よりも分析という概念に依拠して、生成を論ずることになる。B欲求、意志。『起源論』では、欲求とその対象とが切り離されていることから理論的困難が生じ、『感覚論』は欲求、即ちその対象の想起とする。欲求はこのように知性化され、『起源論』では知性の働きから独立していたが、これを改めることとなる。欲求、欲望、意志は、感覚の受動性と記憶の能動性の双方から生成するのである。
(4)形而上学:コンディヤックは常に形而上学(存在論)的言明において慎重で本質は不可知とするが、精神と物体の存在を認める点で終始一貫している。更に精神が物体に還元されないこと、物体の実在的性質に延長が存在しないこと、これらが主張されるが、両者はお互い矛盾しかねないものを孕む。『感覚論』は、ル・ロワの考えるような実在論の論証というよりも、神学的配慮(神の単一性)から、精神、物体のいずれからも、延長(多様性)という実在的質を取り除こうという試みに見える。