本論文の課題は,現存初期仏教聖典の組織及びその主な内容がいつごろ成立したか,現存聖典の記述により釈尊の直説を読みとることができるか否か,そして初期仏教聖典における修行道の体系化のあり方を解明することである.また,聖典成立の考察に深く関わる仏滅年代についても一考を加えた.
本論文において明らかにし得た主要な論点をまとめるならば,以下のようになる.
1.Azoka王の摩崖法勅に記される5人のギリシア王の共通在位年代と,Candraguptaの即位年代,そしてセイロン伝が示すCandraguptaによる即位からAzoka王の灌頂即位までの56年という3要素によって算定した結果,Azoka王の灌頂即位は267B.C.であることが分かった.
2.セイロン有部両伝承の内容を検討した結果,仏滅年代に関してはセイロン説の218年を信用すべきであることが判明した.Azoka王の灌頂即位は267B.C.であるから,それにこの218年を加えた485B.C.が,本論文が到達した仏滅年代である.
3.波羅提木叉は釈尊が制定したものであり,波羅夷法,僧残法,波逸提法などの組織も第1結集の時に成立した.衆学法は小々戒であるため,釈尊の許可に基づく限り,改変可能である.諸律間の衆学法が同種類の問題を取り扱いながら,その条数が甚だ異なる所以である.諸律間の波羅提木叉の条数の相違を理由にして,波羅提木叉の仏滅後漸次成立を主張する学者は,他の7項目の波羅提木叉の条数と衆学法のそれを区別して比較せず、また衆学法と小々戒との関係を見落としているのである.
更に,律蔵の特殊性及び口伝の性質をも考察し犍度部の組織の原形及びその主な内容が第1結集の時に既に成立していたことを明らかにした.
4.BhIlsaとBhArhutの碑文に記されるsuttantika,bhANaka両語の各種文献における使い分けのあり方を検討し,それらの文献の成立年代について解明した.その結果を以下に示す.
経分別・犍度部・四ニカーヤの編纂終了

suttantikaという語の普及の始まり

MahAniddesa編纂終了

bhANakaという語の普及の始まり(前2世紀よりかなり遡る)

七百人犍度やMilindapaJhoの成立
5.パーリ語は釈尊当時のマガダ地域の言語である.釈尊が説法の時に用いた言語は主にこのパーリ語である.仏滅後,釈尊の神格化に伴い,パーリ語は釈尊の用いた言語として重んじられ,聖典語となった.
6.従来よくとられた思想史の研究方法には問題がある.すなわち,新古を決定するために種々の教理を比較する際,その教理を表す術語が複数の次元にわたって,違った意味をもつといったことへの視点が欠けている.たとえば縁起説のような同一の教理が種々の形をもって現われる場合,それが対機説法や伝承上の誤りによって生じた可能性を排除できない.従って教理の発展段階を根拠として経蔵の大部分が仏滅後漸次に増広されたものであると主張することは,多くの問題を含むものであることが分かる.
7.九分教の組織は仏在世中に成立したものであり,第1結集の時にそれが再整理されて五部・四阿含雑蔵の組織が出来上がった.口伝という伝承上の特性を考慮し,五部・四阿含雑蔵が第1結集より後代に成立したと考える場合も,大衆部も含めた現存諸部派の経蔵全てがこの組織を持つことはありえない.
8.八聖道は有漏と聖・無漏の両側面を有し,それぞれの次元で現われるべき「螺旋的修行道」である.十無学法と八聖道とは,同一次元の優劣の関係にはなく,目的地と道程の関係にある.三学の修習方法は八聖道と共通する.しかし,三学系統は段階的修行道として表現されたものであるのに対して,八聖道は三学のそれぞれの段階に現われる修行として示されるべきである.四念処と七覚支は有漏の正定と聖・無漏の八聖道に相当し,定と慧の相互関係のメカニズムを表現したものに他ならない.