本論文は,オスマン帝国のイスラーム法官(シャリーア法廷裁判官)の組織が,19世紀から20世紀初めにかけてどのように変容したのかという問題について,任命制度,教育,出自という三つの側面から検討したものである。オスマン帝国末期のイスラーム法官は,地方行政組織の発展と新しい世俗法廷制度の成立によって,従来の幅広い権限が縮小したため,これまで研究者の関心を集めてこなかった。しかしながら,19世紀以降もシャリーア法廷-イスラーム法官は,オスマン帝国の地方行政機構の主要な一部であり,その制度の再編は,タンズィマートを始めとする統治機構改革,そして,辺境地域を帝国のシステムに統合する「オスマン化」の過程と不可分であった。さらに,近年シャリーア法廷研究の発展によって,イスラーム法官の役割が注目されている。イスラーム法官に対する理解は,一地方の法廷と社会の歴史をオスマン帝国史の文脈に結びつけるための重要な基礎なのである。本論文は,イスラーム法官組織の変容を,オスマン帝国近代における国家の再編成過程に位置づけつつ具体的に明らかにするとともに,地方社会と国家との関係の変化に関しても新しい展望を開くことをねらいとしている。
オスマン帝国末期イスラーム法官組織における最大の変革は,従来のカーディー制度に代わる,ナーイブ制度の成立である。既に18世紀以来,ウラマー組織における人員過剰を背景として,本来のイスラーム法官であるカーディーが任地に赴かず,代理であるナーイブに任務を委ねるという慣行が,帝国全土で一般化していた。ナーイブは,法廷手数料を徴収する権利を得る代わりに,固定額の上納金をカーディーに支払っていた。その意味で,ナーイブ任命は徴税請負制度とよく似た構造をもっていた。ナーイブによる手数料の過当徴収という弊害が慢性的に生じていたが,帝国中央は,ナーイブを管理・掌握できないという問題を抱えていた。この状況に対して,18世紀末にはナーイブ任命を禁止する勅令が出されたが,効果はなく,1838年のイルミエ刑法においては,試験制度の導入など,ナーイブ任命の適切化が試みられた。
1839年に始まるタンズィマート改革によって,徴税請負制の廃止と徴税官の派遣と連動して,シェイヒュルイスラームによる徴税官管区中央のナーイブ任命と,改革施行地域のナーイブに対する給与支給が開始された。財政難によってナーイブへの給与制は廃止されるが,同時に行われたカーディーの官職保持者に対する給与支給は継続されたため,カーディー位保持者とナーイブとの関係の分離が確定した。一方,各地に設立された地方評議会は,シャリーア法廷が司法・行政面で従来もっていた機能の一部を奪うことになった。
タンズィマート初期の改革以後も,ナーイブ任命においては,系統的なシステムは存在せず,インフォーマルな個人的な関係や,位階上の地位が強い影響力をもっていた。それに対して,1855年の一連の改革では,ナーイブ職に,等級制度と,資格認定のための試験制度が導入され,また,法官を養成するためのナーイブ学院が設立された。ナーイブに固有の任命・教育システムの成立は,ナーイブが正式にカーディーに取って代わったことを意味した。他方,カーディー職は名目化し,奨学金や休職手当に類した制度としてのみ,1908年まで存続した。ただし,以上の改革は,アラブ地域を始めとする辺境地域では大きな影響力をもたず,ナーイブは多くの場合,現地で任命・選出された。だが,1864年に始まる地方行政改革を経て1871年に,帝国の全ての州,県,郡のシャリーア法廷に,中央から有給のナーイブが任命されるという原則が確立した。これによって中央集権的に再編成されたナーイブ制度が成立したのである。同時に,この地方改革によって制定法裁判所制度が創出され,その裁判長職はナーイブが兼任するものとされた。しかし,このナーイブの新しい地位は,独自に裁判官任命を図る法務省によって,たえず脅かされることになった。
ナーイブ学院は,イスラーム法官を中央の管理下で養成するために1855年にイスタンブルに設立された。地方に基盤をもつナーイブを排除することも設立の目的の一つであり,設立当初の彼らによる抗議は斥けられた。この学校は,学年制,試験制度,出席管理など,従来のマドラサとは異なる,新式学校の特徴を多く備えた専門教育機関として発展を遂げた。トルコ語による文書作成の習得を重視するところが,その教育方法の特徴である。さらに,ナーイブ学院は,法学校に対抗して,制定法法廷制度におけるナーイブの地位を維持するために,新しい法律や訴訟法をカリキュラムに導入した。第二次立憲政期(1908-1918)には,法官任命におけるナーイブ学院修学と等級資格の徹底化によって,ナーイブ学院卒業生の地位が強化された。卒業生を中心に,専門家集団としての新しいアイデンティティが生まれ,おそらくそれが背景となって,1913年に,イスラーム法官の官職名が「ナーイブ」から「カーディー」に変更された。それより以前の1909年から「カーディー学院」と呼ばれていたナーイブ学院は,マドラサ改革論の隆盛と,政府のイスラーム主義的傾向の強化を背景として,「カーディーのマドラサ」と改称された。
制度の再編にともなって,イスラーム法官職を担う人々の構成にも変化が生じた。サンプルとして抽出した295名の法官の履歴史料からその出自を分析した結果,法官の出身地が特定の地域に偏り,出身階層と教育歴において,それぞれが異なる特徴をもつことが明らかになった。多数の法官を輩出した地域は,イスタンブル,アルバニア南部のエルギリ郡(ジロカスタル),アナトリアのイブラードゥ郷,及び黒海東部沿岸のトラブゾン州である。イスタンブル出身の法官は,高位のウラマーの子弟が中心であった。エルギリ郡出身者は,地方名士層出身で,ナーイブ学院卒業生が多いことが特徴である。イブラードゥには代々法官を生業としてきた家系が多かったが,19世紀末には新しい司法官職や行政官職に移動し始めていた。トラブゾン州出身者は,主に村落部の識字層の出身で,社会的上昇を図ってこの職業に遅れて参加してきた。一方アラブ地域出身の法官は,ウラマー名家の子弟が多く,任地も出身地域内にとどまることが多かった。ナーイブ学院への関心の低かったアラブ地域からは,第二次立憲政期に新たに法官が輩出されることはきわめて少なくなった。これらの地域間の差違は,とりわけ各地域の経済的条件,社会的成層,そして「オスマン化」の傾向の相違に由来するものであった。第二次立憲政期には,ナーイブ学院修学という条件の厳格化,アルバニアの独立などを契機として,新規採用者にはアナトリア出身者が大半を占め,村落部出身者など比較的低い社会階層の出身者が増加した。ナーイブ学院は,アラブ地域出身者を結果的に排除しつつも,辺境地域や村落部の出身者に,オスマン帝国のシステムに参入する社会移動と統合の機会を提供したのである。ただし,それは,ナーイブ学院の要求する「オスマン化」と「トルコ化」のハードルが,他の専門高等教育機関よりも低かったこと,そして,オスマン帝国の官僚システム全体の中で,法官職の占める地位が相対的に低かったことに由来するのだった。
イスラーム法官組織は,タンズィマートに始まるオスマン帝国の改革の重要な一環として,中央集権的な官僚組織として再編された。ただし,この変革は,人員の過剰など法官組織自体が抱えていた問題と,シャリーア法廷の権限を侵す世俗法廷などの新しい諸制度の成立という,シャリーア法廷制度の直面していた内外からの二方面の危機への対応として生じたものだった。そのため,ウラマー層にとって,改革そのものに反対するという選択肢はほとんどありえず,彼らもまた自らを革新する必要性に迫られていたのである。また,中央集権的な帝国の地方行政制度に組み込まれたシャリーア法廷は,地方においてはオスマン的な近代性を代表する一機関となった。1910年代には,辺境地域に至るまで法官を中央から直接派遣するという長老府の目標は,ほぼ達成された。この時期の法官には,アナトリア地域の比較的低い社会階層の出身者が多く含まれていた。彼らもまた,イスラーム法官として「帝国」を経験することになったのである。以上のように,オスマン帝国末期のイスラーム法官職は,伝統的な組織というよりはむしろ,オスマン帝国の近代性の一部だったのである。
オスマン帝国末期イスラーム法官組織における最大の変革は,従来のカーディー制度に代わる,ナーイブ制度の成立である。既に18世紀以来,ウラマー組織における人員過剰を背景として,本来のイスラーム法官であるカーディーが任地に赴かず,代理であるナーイブに任務を委ねるという慣行が,帝国全土で一般化していた。ナーイブは,法廷手数料を徴収する権利を得る代わりに,固定額の上納金をカーディーに支払っていた。その意味で,ナーイブ任命は徴税請負制度とよく似た構造をもっていた。ナーイブによる手数料の過当徴収という弊害が慢性的に生じていたが,帝国中央は,ナーイブを管理・掌握できないという問題を抱えていた。この状況に対して,18世紀末にはナーイブ任命を禁止する勅令が出されたが,効果はなく,1838年のイルミエ刑法においては,試験制度の導入など,ナーイブ任命の適切化が試みられた。
1839年に始まるタンズィマート改革によって,徴税請負制の廃止と徴税官の派遣と連動して,シェイヒュルイスラームによる徴税官管区中央のナーイブ任命と,改革施行地域のナーイブに対する給与支給が開始された。財政難によってナーイブへの給与制は廃止されるが,同時に行われたカーディーの官職保持者に対する給与支給は継続されたため,カーディー位保持者とナーイブとの関係の分離が確定した。一方,各地に設立された地方評議会は,シャリーア法廷が司法・行政面で従来もっていた機能の一部を奪うことになった。
タンズィマート初期の改革以後も,ナーイブ任命においては,系統的なシステムは存在せず,インフォーマルな個人的な関係や,位階上の地位が強い影響力をもっていた。それに対して,1855年の一連の改革では,ナーイブ職に,等級制度と,資格認定のための試験制度が導入され,また,法官を養成するためのナーイブ学院が設立された。ナーイブに固有の任命・教育システムの成立は,ナーイブが正式にカーディーに取って代わったことを意味した。他方,カーディー職は名目化し,奨学金や休職手当に類した制度としてのみ,1908年まで存続した。ただし,以上の改革は,アラブ地域を始めとする辺境地域では大きな影響力をもたず,ナーイブは多くの場合,現地で任命・選出された。だが,1864年に始まる地方行政改革を経て1871年に,帝国の全ての州,県,郡のシャリーア法廷に,中央から有給のナーイブが任命されるという原則が確立した。これによって中央集権的に再編成されたナーイブ制度が成立したのである。同時に,この地方改革によって制定法裁判所制度が創出され,その裁判長職はナーイブが兼任するものとされた。しかし,このナーイブの新しい地位は,独自に裁判官任命を図る法務省によって,たえず脅かされることになった。
ナーイブ学院は,イスラーム法官を中央の管理下で養成するために1855年にイスタンブルに設立された。地方に基盤をもつナーイブを排除することも設立の目的の一つであり,設立当初の彼らによる抗議は斥けられた。この学校は,学年制,試験制度,出席管理など,従来のマドラサとは異なる,新式学校の特徴を多く備えた専門教育機関として発展を遂げた。トルコ語による文書作成の習得を重視するところが,その教育方法の特徴である。さらに,ナーイブ学院は,法学校に対抗して,制定法法廷制度におけるナーイブの地位を維持するために,新しい法律や訴訟法をカリキュラムに導入した。第二次立憲政期(1908-1918)には,法官任命におけるナーイブ学院修学と等級資格の徹底化によって,ナーイブ学院卒業生の地位が強化された。卒業生を中心に,専門家集団としての新しいアイデンティティが生まれ,おそらくそれが背景となって,1913年に,イスラーム法官の官職名が「ナーイブ」から「カーディー」に変更された。それより以前の1909年から「カーディー学院」と呼ばれていたナーイブ学院は,マドラサ改革論の隆盛と,政府のイスラーム主義的傾向の強化を背景として,「カーディーのマドラサ」と改称された。
制度の再編にともなって,イスラーム法官職を担う人々の構成にも変化が生じた。サンプルとして抽出した295名の法官の履歴史料からその出自を分析した結果,法官の出身地が特定の地域に偏り,出身階層と教育歴において,それぞれが異なる特徴をもつことが明らかになった。多数の法官を輩出した地域は,イスタンブル,アルバニア南部のエルギリ郡(ジロカスタル),アナトリアのイブラードゥ郷,及び黒海東部沿岸のトラブゾン州である。イスタンブル出身の法官は,高位のウラマーの子弟が中心であった。エルギリ郡出身者は,地方名士層出身で,ナーイブ学院卒業生が多いことが特徴である。イブラードゥには代々法官を生業としてきた家系が多かったが,19世紀末には新しい司法官職や行政官職に移動し始めていた。トラブゾン州出身者は,主に村落部の識字層の出身で,社会的上昇を図ってこの職業に遅れて参加してきた。一方アラブ地域出身の法官は,ウラマー名家の子弟が多く,任地も出身地域内にとどまることが多かった。ナーイブ学院への関心の低かったアラブ地域からは,第二次立憲政期に新たに法官が輩出されることはきわめて少なくなった。これらの地域間の差違は,とりわけ各地域の経済的条件,社会的成層,そして「オスマン化」の傾向の相違に由来するものであった。第二次立憲政期には,ナーイブ学院修学という条件の厳格化,アルバニアの独立などを契機として,新規採用者にはアナトリア出身者が大半を占め,村落部出身者など比較的低い社会階層の出身者が増加した。ナーイブ学院は,アラブ地域出身者を結果的に排除しつつも,辺境地域や村落部の出身者に,オスマン帝国のシステムに参入する社会移動と統合の機会を提供したのである。ただし,それは,ナーイブ学院の要求する「オスマン化」と「トルコ化」のハードルが,他の専門高等教育機関よりも低かったこと,そして,オスマン帝国の官僚システム全体の中で,法官職の占める地位が相対的に低かったことに由来するのだった。
イスラーム法官組織は,タンズィマートに始まるオスマン帝国の改革の重要な一環として,中央集権的な官僚組織として再編された。ただし,この変革は,人員の過剰など法官組織自体が抱えていた問題と,シャリーア法廷の権限を侵す世俗法廷などの新しい諸制度の成立という,シャリーア法廷制度の直面していた内外からの二方面の危機への対応として生じたものだった。そのため,ウラマー層にとって,改革そのものに反対するという選択肢はほとんどありえず,彼らもまた自らを革新する必要性に迫られていたのである。また,中央集権的な帝国の地方行政制度に組み込まれたシャリーア法廷は,地方においてはオスマン的な近代性を代表する一機関となった。1910年代には,辺境地域に至るまで法官を中央から直接派遣するという長老府の目標は,ほぼ達成された。この時期の法官には,アナトリア地域の比較的低い社会階層の出身者が多く含まれていた。彼らもまた,イスラーム法官として「帝国」を経験することになったのである。以上のように,オスマン帝国末期のイスラーム法官職は,伝統的な組織というよりはむしろ,オスマン帝国の近代性の一部だったのである。