周作人は日本留学中にハントやテーヌの文学理論を中国の伝統的文学観の枠組みを用いながら受容して自己の文学観を形成した。その成果は1908年に「
河南」に発表された『論文章』と『哀絃篇』の二篇の文学論として結実している。周作人の形成した文学観を要約すると次のようになる。「文学」は「国民精神」の寄託されたものであり、「国民精神」が「環境」・「時代」の作用を受けて形成される。そして、「精神」=「人情」(humannature)の時間的空間的普遍性に依拠することで文学は時間的空間的普遍性を有する、というものである。この際、「詩は志を言う」という中国の伝統的な文学観の「詩」に「文学」、「志」に「国民精神」を対応させて論じていることから、周作人がハントやテーヌの文学理論を中国の伝統的文学観の枠組みを用いながら受容して自己の文学観を形成したことが分かる。また、「文学」の時間的空間的普遍性に対する認識は、周作人が外国文学を中国に翻訳紹介することで中国人を感化しようという発想の論拠ともなっている。
日本留学中の周作人は「被抑圧民族文学」の翻訳をする一方で、ギリシアに対する関心を強めていった。1909年からの立教大学における古典ギリシア語の学習はその一環であった。理論的にはテーヌ『イギリス文学史』や上田敏の議論などからギリシア文化・文学について学び、ギリシア文化を中国に導入することで、中国にもルネサンスを招来できるという認識を持ったことが考えられる。また、1910年以降、ヘーローダース、テオクリトス、サッフォー、ルーキアーノス、ロンゴスといった古代ギリシアの作家たちの作品を翻訳紹介し、この作業は一生涯続けられていった。古代ギリシア文学に描かれた古代ギリシア人の現世主義と美を愛する精神、霊肉一致の「自然」な人間社会は、中国の新社会の理想像として周作人には写ったと考えられる。従って古代ギリシア文学の翻訳紹介活動とは中国社会の目指すべき理想像を提示する作業であり、周作人の自由恋愛・女性解放などの新文化に関する主張と連動したものでもあった。
また、筆者は今回周作人の全翻訳作品の年別・国別統計を取ることで、翻訳活動の転換が正に思想的危機の時期とされる西山療養期の終了する1921年9月に生じていることに注目するに至った。日本留学中以来続けられてきた「被抑圧民族文学」の翻訳は1921年9月に終了する。そして、これ以降晩年まで続けられていく翻訳の対象はやはり日本留学中以来翻訳紹介してきた古代ギリシア文学と、五四時期から翻訳を始めた日本文学にしぼられることが明らかになった。この現象を踏まえると1921年9月は周作人の文学的アイデンティティーの確立期と評価できると言える。
周作人はギリシア文化・文学の導入により儒教による精神の束縛から中国人を解放し、中国に新文化を生み出すというルネサンスをモデルとした構想を抱いていたと考えられる。つまり、「ギリシア」とは周作人の生涯の文筆活動を支える思想的な基盤の一つであり、生涯に渡り古代ギリシア文学の翻訳紹介を続けた理由はここにあったのである。