本稿は、いまや中国伝統の儒教的女性像の代名詞でように一般に認識されている「賢妻良母」を取り上げ、その語彙はもちろん、概念もなお1905年前後に始めて登場した近代的産物であることを明らかにすると同時に、それが如何なる過程を経て中国伝統=儒教と結び付けられていったかを探ることで、近代中国において「伝統」が如何に想像され、また創造されていったかを究明する上で、一つの手がかりを提供することを目的とする。
まず、第一章は、1900年を前後して中国に始めて登場した際の「賢妻良母」が持つ「近代性」及び「外来性」を明らかにする。国家存亡の危機に直面させられていた近代東アジア国家では、中国のみならず、日本及び韓国においても、「賢妻良母」が富国強兵に寄与できる理想の女性像として求められ始めた。新しい女性像としての「賢妻良母」は、伝統的女性像と区別される必要があった故に、先進外国の女性像を原型としなければならなかった。つまり、韓国や中国が日本女性像をモデルとして「賢妻良母」像を創造したならば、日本は更に欧米の先進国からその原型を求めていたのである。本稿では、日本「賢妻良母」像の創始者とされる中村正直と、中国の地で「賢妻良母」教育を実際試みた服部宇之吉に注目し、中国に「賢妻良母」像が登場するまでの過程及びその意義を明らかにする。
第二章では、五四新文化運動を経て、当初外来の新女性を意味していた「賢妻良母」が、中国伝統を引き継ぐ旧時代の女性像に姿を変える過程を、『婦女雑誌』(1915年-1931年)に登場する「賢妻良母」像を追うことで明らかにする。まず、『婦女雑誌』が時代とともに変化する女性論を充実に反映していることを資料批判的視角から検証した上、五四新文化時期とその前後に「賢妻良母」が遂げていく変身の過程、そして、それぞれ「賢妻良母」に反映される内容の変化を明らかにする。
第三章では、近代中国において最も激しい思想的遍歴を見せた人物のひとりである江亢虎(1883―1954)を取り上げ、中国現状と自らの思想の変化にあわせて、彼が「賢妻良母」に如何に異なる解釈を与えていたのかを明らかにする。江亢虎は日本留学時期に良妻賢母に対する批判的言論に接しており、その理念をもとにして1900年代後半自ら北京で女子学校を経営していたのみならず、1920年代以降はアメリカ滞在時に形成された新しい視角から再び女子問題を取り上げているのである。同時に、江亢虎の女子教育及び女性論が彼の社会主義思想の形成に如何に影響していたかも究明する。