中国における「国学」という概念は、解釈しようとすればするほど混乱する怪物であり、また、具体的な歴史背景から切り離して語れるものではない。本稿はその概念が最初に提起された清末に立ち返えって、その原点から考え直そうとしたものである。
しかし、その概念の混乱を是正することではなく、むしろその「いい加減さ」を暴きだすことが、本稿の趣旨である。清末国学という研究対象は、清朝最後の十数年間において、アイデンティティの危機の中から国学論を排満革命と同時に提起し、それに基づいて学問研究を行うことによって中国文化を「国学」の名のもとで再構築することを目指すもの、と規定することができる。それは主に「三つの重なる円」によって構成された。つまり、上海で結成された国学保存会、東京で結成された国学振起社・国学講習会、中国の蘇州で結成された南社である。その中心となった人物は、章炳麟、劉師培、鄧実、黄節、馬叙倫、陳去病、柳亜子などである。取り扱う史料としては各人の著述以外に、中国史上最初の学術誌『国粋学報』、清末最大の革命派雑誌『民報』、そして不定期刊行の文集『南社』がある。その膨大な対象を検討するには、新たな切り口として、本稿は清末の国学論に注目し、その議論から研究テーマを展開しようとするものである。清末国学の核心はアイデンティティの再構築にあると考えられる。その国学論は、「国」と「学」との二つのサブテーマに分けて検討することができる。そこでの「国」と「学」は「民族」と「文化」との二つの概念に対応しており、それによって、本稿は民族論と文化論に対する二つの考察から構成される大枠を設定した。極端に言えば、この二つの考察なしには、清末国学をいかに語ろうとしても空しいものになりかねない。
「民族」と「文化」がどのように語られていたのか、その語りに何を伝えようとされていたのか、を問いながら、国学論の核心に迫るというアプローチを採る。その核心において、清末国学論者は「国」と「学」に向かって、「私は何人?そして、私は何学の人?」という問いにぶつかったのである。その答えは、彼らのアイデンティティの柱を成していたのである。
本稿は日本で書き上げるという背景もあって、清末国学の日本との関わり合い、とくに明治時代の国粋主義からの影響を追究することを新たな課題として加えるほか、これまであまり論及されなかった東京から発信した国学論も大きく取り上げ、さらに、日本および台湾での滞在経験が清末知識人に及ぼした影響をも検討することによって、清末国学をより立体的に見ようとしたものである。
本稿は主に三つの部分から構成される。第1部は歴史事実の究明によって、その国学論と人的ネットワークの成り立ちの過程を再構成するものである。第2部と第3部は論文の中心であり、タイトルの通り、清末国学の民族論と文化論を考察するものである。第2部では「民族」という概念に相当する思想観念を古代から探り、清末においてその変容と破綻を見る。この部の中心は章炳麟と排満論であるが、すでに多くある先行研究を踏まえた上で、これまで研究されてこなかった資料と思想に光を当て、近代中国人のアイデンティティの揺れを明らかにしようとする。そのアイデンティティの再構築のための最大の基礎と見なされたのは歴史と言語である。そのため、第3部は清末国学における歴史と言語を考察することを課題とする。歴史研究は清末学において最も実りの多い分野であるが、単なる学問研究をはるかに超えた射程を持たせていた。その歴史研究とその歴史論を通じて、歴史の再編成という企てから「思想としての歴史」は分析される。清末国学が描き出した言語統一のシナリオは周到かつ穏健なものである。それは古音、方言、白話、文言についての研究と議論を通じて分析される。この二つの分析によって、清末国学におけるアイデンティティの再構築によってもたらされたディスクールの編成と創造を検討する。論文のはじめには、清末国学という対象を越え、より大きな枠組みで問題を提起した。そして、それに呼応するように、論文のおわりに、清末から今日に至るまでの「国学」、「国粋」、「国故」などの言説にまつわる議論を検討し、ほぼ百年にわたったこの言説の本質と行方を批判的に見ようとする。