楽浪郡は前漢の武帝が古朝鮮を滅ぼし紀元前108年に設置した漢四郡の一つで、高句麗によって駆逐される紀元後313年まで存続する。
楽浪郡の設置は漢帝国にとっては古朝鮮と周辺東夷諸国の統制のための拠点としての意味があるが、東夷諸国にとっては漢帝国を中心とする国際舞台に本格的にその姿を現わす契機にもなった。したがって楽浪郡の様態とその文化は、並行期の韓半島と日本列島の文化変動や歴史展開を再構成する上では欠かせない研究対象の一つになる。このような歴史的経緯から楽浪郡とその文化に関しては、戦前には日本人研究者の主導のもとで、その後は北朝鮮研究者たちが加わり多くの研究が行われた。楽浪郡の位置、楽浪古墳の編年、楽浪郡の種族構成、周辺民族への文化伝播などに関して多くの研究とそれに伴う成果が得られた。
しかしながらこのような研究は楽浪郡の個別文化要素に関する基礎研究が土台になっていないため、根本的な限界を抱えているとも言えよう。
本論文は楽浪郡の個別文化要素に関する研究の重要性を考慮し、その手始めの作業として楽浪土器と青銅器の性格把握を基本目的とするが、それを土台に楽浪郡の位置問題の解明や、楽浪郡と三韓社会の交渉関係の変遷を明らかにすることも目的としている。
序論に続く第2章は楽浪土器の性格解明を中心課題とし、全体を九節に分けて可能な限り多くの器種の検討を試みた。とくに第2節では楽浪土器に対する胎土分析にもとづき、楽浪土器の1次分類基準として三種類すなわち〈泥質系土器〉・〈石英混入系土器〉・〈滑石混入土器〉を提示した。さらに第3節から第7節では、各種類それぞれの代表的な器種を中心にその形態・製作技法の特徴を明らかにした。検討対象となった器種は泥質系土器群では〈円筒形土器類〉・〈高杯形土器類〉・〈叩き文短頚壷類〉・〈盆形土器類〉・〈碗形土器類〉、また石英混入系土器は〈甕形土器〉、そして滑石混入系土器は〈深鉢形土器〉である。泥質系土器類はその殆んどが粘土紐積み上げに叩きを加えて円筒状の基本形を作りさらに形を変えていく方法をとっている。基本形製作までは瓦の成形と同じであり両者が同一工人による製作であることが明らかになった。石英混入系土器は円筒状の基本形を作らない器種で、滑石混入系土器の深鉢形土器は形起こしに叩きを加える成形であることが明らかになった。
第8節ではこれらの土器類の成・整形技法に関する解釈を、土器の製作復元実験を通じて検証する。そして第9節では楽浪郡並行期の遼東地域の土器、なかでも遼陽漢墓・牧羊城出土土器を中心に楽浪土器との比較を行い、形態・製作技法の面での類似と相異を検討した。その結果、遼東地方の土器作りにはない回転ヘラケズリによる底部の仕上げ、水挽き成形などが存在していた可能性などを明らかにした。
第3章では楽浪青銅器を検討する。第1節では出土遺物の検討を土台に楽浪土城内で様々な青銅器の作られたこと、そして青銅器製作工房の位置を確認した。さらに第2節では楽浪青銅器のうちいわゆる「漢式青銅器」の一つである青銅鏃について、形態や製作技法の特徴をこまかく検討した。さらにその結果を土台に、「漢式青銅器」が楽浪郡で自作された可能性があることを明らかにした。
第4章では第2・3章で得られた楽浪文化に関する基礎的認識を土台に、まず第一に楽浪郡の位置問題を韓・日両地域から出土する「漢式土器」の製作地確認から検証を試みた。その結果「楽浪郡平壌説」の妥当性を確認することができた。
第二は三韓地域から出土する楽浪関連の考古資料の性格を明らかにし、それぞれの時・空間的変化様相を土台に、楽浪郡との交渉の内容とその変遷を検討した。その結果、楽浪郡設置以前には馬韓が対中国交渉の中心拠点であり、第二段階には弁辰韓がその中心であり、さらに後には弁韓地域が楽浪郡との交渉関係の中心であったことが明らかになった。