近世の地方三部会は、19世紀後半以来の伝統的な見解とは異なり、中央の絶対王権の中央集権化の前に敗退する受動的な存在ではなく、近世の行財政において無視しえない役割をはたしていた。
ラングドック三部会は、14世紀中葉から18世紀末までおよそ4世紀半の長きにわたって存続した。王権は、国王財務官僚制であるエレクシヨン制の全国への導入と、地方三部会からの課税同意権と徴税権の剥奪を試み、ラングドック三部会も、幾度かの存亡の危機があった。これらの危機をくぐり抜け、三部会はその特権を死守した。王権も、17世紀中葉に政策を転換し、エレクシヨン制の拡大をやめ、地方三部会の集金力を動員して、王権の財政難の克服に利用しようとした。
ラングドック三部会は、二つの手段を用いてみずからの存続のための資金を調達した。第一に、ラングドックの直接税収入の大部分の徴収権は三部会財務官が掌握していた。第二に、ラングドック三部会を支払債務者とする定期金(ラント)つき公債を発行して、公債元本を集金した。セネシャル区会議やディオセーズ会議も、同様に公債を発行している。
ラングドック三部会は、資金調達のために公債を完売する必要があった。そこで、三部会は定期金生活者(ランチエ)に有利な条件を設定し、彼らにたいする優遇措置を講じ、公信用市場の拡大を図った。ラングドックの地方債は手堅い投資の対象という評判を得ていた。地方の財政的自律性が公信用市場によって支えられていたことは明らかである。
ラングドックの地方当局の公債の保有者の居住地は、おもに、パリ、トゥルーズ、モンプリエであり、フランス全土、さらに海外にも広がっている。かれらの身分・職業は、ラングドック三部会役人や法服貴族とその家族、家内奉公人、帯剣貴族、修道院・病院・救貧院などの宗教団体が多数を占める。しかし、他方で、ブルジョワ、手工業者などの小口の投資家も存在した。18世紀には、ラングドックの地方の自律性は、ナショナルかつインターナショナルな、さまざまな階層で構成される公信用市場なくしては維持できなかったのである。
かれらの公債購入の動機は、定期金の受領である。帯剣・法服貴族や官職保有者層は、所領の細分化による家産分割の回避のために、定期金つき公債を長男以外の相続人に与えた。エリート層にとって、公債購入は、家産の維持・拡大の戦略の一環であり、定期金生活者の利害と地方当局の相異なる利害が一致したことが、ラングドックの地方債の成功の原因だった。
18世紀後半には、地域振興のために道路・運河などの交通網の建設・改修といった公共事業のための公債が大量に発行されたが、定期金生活者の公債購入の目的は、交通路の開通による地主の所領の農産物の販路の拡大だったが、定期金の受領による家産の維持・拡大もあった。
ラングドックの財政システムは、革命前夜に破綻寸前に追い込まれた。戦費や負債の増大で財政が逼迫する中央政府は、国庫収入を確保し、地方税を削減しようとする。他方、過剰な税負担に苦しむ地域住民は、コストのかかる地方行政に不満の声をあげる。ラングドックの地方当局は両者の挟撃を受けた。
ラングドックの地方当局の蹉跌の原因は二つある。一つは、啓蒙専制的行政の推進に見合った税制改革がラングドックでは行われなかったことだろう。地方振興が進むにつれて、財政状況は悪化し、行政の革新性と税制の保守性とのあいだの矛盾が拡大した。
第二に、ラングドック三部会は、高い信用能力をバックに多額の資金を集めることができた。しかし、その代償として、地方当局は、毎年、定期金を公債保有者に永久に支払い続ける義務を負った。公債の担保は直接税収入であり、定期金は直接税から支払われた。18世紀後半には、定期金の支払額の増大により、直接税の増徴と負債の膨張が生じた。地方当局は、定期金生活者と納税者との相反する利害のあいだでジレンマに陥った。
ラングドックの公信用市場の拡大の努力により、ラングドックの地方当局は豊富な集金力を得たが、その反面、定期金生活者という既得権益層を生み出し、かれらは、直接税収入に寄生し、これを蚕食した。それゆえ、ラングドック三部会などの地方当局は、公信用能力によって長く存続しえたが、その同じ公信用能力にたいする過信によって滅んだのである。