カネッテイは、ドイツ語で書くユダヤ系の作家であり、『群衆と権力』は、迫害された民族の一員としてファシズムの群衆現象を経験した作家の群衆論である。しかし『群衆と権力』には、ファシズムの群衆現象を論じた他の多くの群衆論とは異なり、群衆を否定的に捉える姿勢は見られない。また、カネッテイはアフォリズム集の中で、『群衆と権力』という作品は「読者に、希望を探すことを強いる」と語っている。
本論において論者は、次のような二つの問題意識を念頭に置いている。一つは、『群衆と権力』において、カネッテイはなぜ群衆に対して肯定的な姿勢を取っているのか、そして読者が見つけ出すことのできる「希望」とは何なのか、という問題意識である。
もう一つは、群衆と権力との関係性である。『群衆と権力』という作品名が示しているように、この作品は群衆論と権力論から成り立っているが、そこには、群衆と権力との間の関連性についての直接的な記述は見当たらない。権力に迎合しコントロールされる群衆という、多くの群衆論に見られる群衆と権力との関係性は『群衆と権力』には見られないが、「希望」を探しながら『群衆と権力』を読み解いていくことで、そうした「希望」結びつくような両者の関係性の捉え方が浮かび上がってくるのではないだろうか。
こうした二つの問題意識に沿って、『群衆と権力』という作品の考察を行っている本論は、序にあたる第1章と結論にあたる第8章を含む、8つの章から成っている。
第2章では、群衆(Masse)という語の歴史と、カネッテイが群衆というテーマに興味を抱き始めた1920年代当時にすでに知られていた群衆論がどういったものであったかを考察している。
第3章では、『群衆と権力』を、カネッテイが激しく批判したフロイトの群衆論、そしてフロイトが大きな影響を受けたル・ボンの群衆論と比較し、こうした比較を通して、カネッテイの群衆論の特徴を明らかにしている。
第4章では、カネッテイの群衆というテーマへの関心の出発点となった群衆体験、またその際に体験した身体感覚が、どのような形で小説『眩暈』そして『群衆と権力』に現れているのかについて論じている。
第5章では、「群衆と権力」を、ファシズムの群衆現象を「群衆狂気」という概念をもって解釈しているブロッホの群衆論と比較している。
第6章では、死と権力の関係性を論じている。カネッテイは死と権力の関係を、他者の死が人間の内に権力の意識を生じさせ、また権力者はこうした権力の意識を味わうために積極的に他者の死を求める、というふうに捉えている。こうした死と権力の関係性を克服する可能性についてのカネッテイの姿勢を考察している。
第7章では、「変身」を取上げている。『群衆と権力』において「権力」は、人間から流動性を奪い、人間を固定化するもの、人間に「変身」を禁じるものとして捉えられている。こうした「変身」と「権力」の関係、そして「変身」と「群衆」の関係を考察することで、カネッテイの提示する、群衆と権力の関係性が浮かび上がってくる。
本論は、『群衆と権力』の中に見つけることのできる希望とは何か、という問題意識に沿って、以上のような観点から作品の解釈を試みた。ここで論者が見つけた希望とは、個的存在としてあることからの解放、個としての自己認識からの解放への希望であり、「狂気」という概念からの解放への希望であり、人間を個的存在とする権力からの解放への希望であった。すなわち、『群衆と権力』の中に見つけることのできた希望とは、人間を解放することへの希望であった。カネッテイはこうした人間解放への希望を群衆のうちに見出していた。
群衆を否定的に捉え、否定的な存在としての群衆をなす人間たちを再び個的存在とすることによって、群衆の否定的な性質を克服することを群衆という問題の解決策とする他の多くの群衆論と、『群衆と権力』とは異なっている。個的存在としてあらねばならないがために、人間は群衆の一員となることを切望すると考えるカネッテイにとって、人間を再び個的存在とすることは、群衆問題の解決策とはなりえない。カネッテイは群衆の内にこそ、個としての自己認識から解放されることによって可能となる、真の他者理解の、そしてそうした他者理解の上に成り立つ共存の姿への希望を見ている。