この論文は、筆者が1995年から2000年にかけてロシア共和国アルハンゲリスク州ヴェルフニャヤ・トイマ地区で採録したチャストゥーシカ1128篇を分析し、その特徴づけと分類について、ロシア語で述べたものである。巻末には「ヴェルフニャヤ・トイマのチャストゥーシカ」として、ヴァリアントを整理した876篇のテキスト、その日本語訳、注、および採録状況と歌い手に関する情報を掲載した。テキストは論文で述べている「演劇性」に基づいて分類し、論文第2部の記述と平行して配列した。
日本では馴染みの薄いロシア民衆歌謡「チャストゥーシカ」は、19世紀後半に成立した比較的新しいジャンルである。叙事詩や昔話、儀礼歌の採録と研究に押されてロシアでも本格的な研究は少ないが、20世紀初頭および1920年代、60年代に貴重な研究と出版が集中しており、現在また、ソ連時代には不可能だった政治的・艶笑的なテキストの刊行が進むなど関心が高まっている。その研究史については本論文序章で詳述した。
論文の第1部「ヴェルフニャヤ・トイマのチャストゥーシカの特徴づけ」では、まず北ロシアのチャストゥーシカの韻律(第1章)と詩学(第2章)の特徴を述べた。第3章ではチャストゥーシカの各行を機能別に「叙述」「疑問」「勧誘」「呼びかけ」に分類して1曲4行の構成を調べた結果、前半2行には「呼びかけ」「勧誘」が多用されてフォーミュラを形成する一方、後半2行は「叙述」に当てられる傾向が強いことが立証された。第4章「テーマ」では、従来のテーマ別分類の曖昧さを指摘し、チャストゥーシカのテーマは、歌中の登場人物の人間関係と、その背景となる事象とを組み合わせによって決めるべきとした。第5章では、本論文のキーワード「演劇性」の考え方が以下の様に提示されている。
チャストゥーシカは、1人称の立場から歌われるものと3人称で歌われるものがあり、また、呼びかけの多用に見られるように2人称が重要な役割を果たしている。つまりチャストゥーシカのテキストには「誰が(発信者)」「誰に(受信者)」歌っているかが明示されるという特徴があり、その組み合わせによる分類が可能である。例えば、あるチャストゥーシカは「未婚の娘が」「恋人に」呼びかけたもの、他の歌は「既婚女性が」「友人に」対して歌っているもの、と規定できる。特定の相手への呼びかけがない、いわゆるモノローグには、受信者として「聞き手」を想定することができる。ただし、常に実際の演奏のレベルとテキストのレベルは峻別されねばならず、歌い手は各チャストゥーシカにおいて発信者の役(「未婚の娘」「既婚女性」)を演じていると考えられる。また、3人称による叙述で発信者が限定されないテキストは、歌い手が「語り手」を演じていると見なせる。これが、筆者による、演劇性による分類の骨子である。
論文の第2部では、演劇性の原則に基づいて採録資料を実際に分類し、個々のグループについてその特徴を記述した。全レパートリーの70%以上を占めるのは未婚女性のチャストゥーシカであり、それらは呼びかける相手によって「恋人へ」「恋人以外の男性へ」「友人またはライバルへ」「家族へ」等々に下位分類される。このうち最大のグループを形成するのは「聞き手へ」の歌、すなわちモノローグであり、娘達はこの形式で様々な人間関係を歌い上げる。例えば自分と恋人の関係、自分の眼から見た恋人の描写、自分と自分の家族等。また、戦争や遊びの集い等に関する様々なエピソードも独自のグループを成す。
一方既婚女性たちは、未婚の女性へ結婚を急がぬよういさめる一連のチャストゥーシカを持つ。暗いトーンで結婚生活を嘆くこれらの歌が、伝統的な農村の結婚儀礼で歌われた古い儀礼歌の機能を受け継いだものであることは、歌い手達の証言から明らかである。
その他、歌い手の演じる役によって、老齢を明るく歌う「おばあちゃんのチャストゥーシカ」、陽気で冗談の多い「若者のチャストゥーシカ」、暗く既婚女性の結婚の歌に似た特徴を持つ「新兵のチャストゥーシカ」、鋭いやりとりを形成する微妙な関係の「婿と義母のチャストゥーシカ」、コルホーズでの労働や冬季の森林伐採の様子が歌われる「コルホーズ員あるいは森林労働者のチャストゥーシカ」が分類された。更に、発信者の年齢・性別等の情報に欠ける「娘あるいは若者のチャストゥーシカ」、歌い手が2役を演じる「会話のチャストゥーシカ」、語り手を演じる「語り手のチャストゥーシカ」を抽出してその特徴を述べた。
テキストの演劇性による分類はチャストゥーシカの特性に即しており、無味乾燥に陥ることなくそれぞれのグループの違いを際立たせる。更にチャストゥーシカの演劇性の高さは演奏のレベルでも指摘でき、北ロシア農村のチャストゥーシカを特徴づけるものと言える。今後様々な地域、様々な集団のチャストゥーシカが演劇性の観点から分類され、比較検討されていけば、ロシア各地に多様に分布するこのフォークロアジャンルの特性は次第に明らかになっていくだろう。