本稿は、国家の統治機構の構造的変遷を辿ることを通して、後漢の国家と在地社会の関係性について論じたものである。
第一部においては学説史や史料についての検討を行った。第一章では戦後の中国古代国家論に関わる学説史を整理し、後漢時代の研究のための問題点を確かめた。第二章では基本的史料である『後漢書』についてその成立や依拠した原史料などについて検討した。第三章では、本稿の考察で用いる文献以外の、新出出土史料や石刻史料について、それらの出土や来歴の事情などにも依拠してその史料上の性格について論じた。
第二部では、両漢交替期の政治史的展開を整理・検討することを通して当該時期の政治史的特質と後漢の統治機構のあり方について具体的に考察した。第一章では後漢の建国者である劉秀が政権を確立する過程を政治史的に分析し、両漢交替期においては前漢以来の地方支配のための郡県制に基づく機構が充実しており、その掌握が当該時期の有力者にとっては不可欠であったことを論じた。第二章では、前漢以来の郡県制の成熟過程を史的に跡付けつつ、在地の農業社会の再生産維持のための政策が、どのように発布されていたのか整理検討し、前漢の「郡国」に替わって「州」やその長官である「刺史」が重要な役割を果たすようになったことを明らかにした。
第三部においては、後漢時代における州と刺史の重要性が、実際にはどのように展開したのか、その過程を具体的に検証した。第一章においては、漢代の刺史制度の概略を確かめたうえで、後漢の刺史が実際に果たした多彩な職責を様々な観点から整理・検討した。依然、監察官としての職責を有することから、後漢の州とその長官である刺史は、郡県制の外側から直接在地社会に接触する形で、郡県制的支配を原則とする国家統治を補完する役割を実際には果たしていたことを剔抉した。第二章においては、元来、軍事・警察的職責を果たし郷・里の系統とは別の位置づけで在地社会の秩序維持に当たっていた「亭」の機構を州がその軍事への関与などを通じる形で掌握していたことによって、州の在地社会への規制が可能になったことを明らかにした。第三章では、州の属吏・治所などに着目する形で、前漢末以来、州の機構が整備・充実していったこと、後漢の州の治所が、原則として郡の治所の置かれた県とは別の県に置かれていたことなどを明らかにし、後漢の州が郡県制の外側から国家統治を展開することが、事実上制度的に担保されていたことを論じた。第四章は、そうした後漢の州なり刺史なりの実質的重要性に比して、実際の後漢の制度においては、刺史はあくまでも官秩六百石の監察官に位置付けられ続けていたその「制度」と「現実」の大きな齟齬の拠って来たるところを、後漢の諸侯王・列侯の存在に着目することで解明した。後漢の諸侯王・列侯は、あくまでも形式的なものであったとは言え、国家の藩屏としての役割を大きく期待されていたため、前漢的郡国制の建て前を崩すことは出来なかった。その結果、後漢を通じて州や刺史は制度的には低い位置に置かれ続けたのである。
第四部においては、第三部までに明らかにしてきた州を主軸とする後漢の統治機構が、実際の在地社会の支配を行うに当たって有効に機能していたことを論じた。第一章においては、後漢時代において、豪族と呼ばれる社会の有力層がどのような存在として当時認識され、かつ、国家統治の主体の側から如何なる性格のものとして位置づけられていたかを明らかにしたうえで、現実に国家統治を体現する地方官が在地社会の統制に当たっていた様子を豪族層との関わり方を中心にしながら具体的に剔抉した。第二章では、後漢中期以降建設が流行した墓碑について、その墓碑銘が今日に伝えられていて、同時にその故人の列傳が『後漢書』に存在する場合で、その碑銘と列伝との内容に差異があるものに着目し、墓碑を建設した人々と国家権力との間の政治的対抗関係を想定して考察を進めた。その結果、国家の統治機構の最末端の職掌を独占して、その支配を下支えする存在ではあったかも知れないが、究極的には国家の支配に服さなければならなかったという在地社会の豪族の実像が浮かび上がった。第三章では、走馬楼呉簡の嘉禾吏民田家〓と呼ばれる大型の木牘に現れる「丘」について分析し、それが、後漢以来、郷段階で実施されていた徴税業務の推進のために、孫呉政権下において国家主導で便宜的に編成された組織ではないかと論じた。
結言においては、本稿で実証的に明らかにしてきたことを、中国古代国家論のこれまでの議論のなかにどのように位置づけることが可能であるのかの展望について述べた。