本稿は島尾敏雄(一九一七~一九八六年)について、初期「夢もの」(『夢の中での日常』現代社、一九五六年)、『死の棘』(初版新潮社、一九七七年)、それに沖縄・奄美と本土の関係を問題にした「南島エッセイ」(ヤポネシア論)の三領域を中心に考察する。
本稿の最も重要な観点は、島尾の文学の核心が「意味」をめぐる問題にあるということである。とりわけ初期作品の主要な関心事は「文字」であると考えられ、ことばと現実の関係、書かれた文字の意味が書き手の意図を裏切っていくことへの焦燥、虚構の世界の創造主となるか単なる享受者に甘んじるかの闘い、等々を読みとることができる。また『死の棘』ないし「南島エッセイ」は、本土と沖縄・奄美との間の帝国主義的支配と従属化といった政治のただ中において、その関係が規定され意味づけされてきたという事実への省察であると考えられる。
第一章では、虚構への憧憬や記録性へのこだわりといった島尾の文学的志向を、一九三〇年代の映画言説ならびに太宰治の饒舌文体への強い関心との関連において考察する。虚構の物語がまさに映像の写実性に伴われているという点で、映画は虚構の真実性を保証しうるジャンルとして島尾に印象づけられたものと考えうる。
第二章では初期「夢もの」を分析する。「摩天楼」「石像歩き出す」は既成の記号体系を容易に超越してことばによって虚構の世界を織り上げる創造力への賞賛であり、「夢の中での日常」はそうしたことば=記号との戯れ・遊びが、書き留められ外化された文字そのものによって阻害され、中絶させられる物語である。「大鋏」では、文字と記号を自由に操る主体に成り変わったつもりがたんに受動的享受者の役割を演じていたにすぎない小説家の物語が抽出される。
第三章では「贋学生」を分析する。語り手を翻弄する贋学生「木乃」を、映画、太宰の饒舌文体、そして創造の魔力を握る悪魔のイメージが混在化したキャラクターとして考えることで、語り手「私」が(偽物を偽物として)正しく書き留め・裁く主体になることを願いながら、結局は木乃の繰り出す虚構の世界に魅入られ、享受する立場に甘んじることになる物語として解釈する。
第四章では、『死の棘』をたんなる私小説とする解釈・読解から距離をとりながら、意味の統御不可能性をめぐる小説と捉える観点から考察する。ミホの細々とした「律法」が、トシオのことばからの「嘘」の排除、という点に集約されることに着目する。この要求は、真実を書くべき者としての小説家トシオのアイデンティティを一面では補強・補完しながら、他方ではトシオを相互行為的・相互応答的な場に引きずりだすことで、一方的に記述し、(正しい)意味を規定・制御する書き手の立場を不可能にする。
第五章では、『死の棘』のミホとトシオが暗示する「南島」と本土との関係に焦点化する。ミホの「狂騒」の原因は、たんに「南島」と「女性」という二重の客体性・被害者性を引き受けてきたことのみにあるのではなく、まさにミホ自身が「南島」(父)を切り捨て、本土(トシオ)を選び取ってきたという事実によって一層深刻化する。彼女の「狂騒」は、「南島」への回帰願望や、「南島」を代表する痛み以上に、彼女自身の秘された主体化の欲望と挫折の徴と考えられる。
第六章では「南島エッセイ」を考察する。これらは島尾自身の戦争体験における本土と「南島」の帝国主義的な政治・歴史関係の意識化の過程で書かれた。「琉球弧」という語は、分断統治の歴史を超えて統一的なアイデンティティを戦略的に確立する必要性に応じて選択され、他方「ヤポネシア」は、沖縄と本土のゆるやかな共同性を目指すべく造語された。さまざまに問題をはらみつつも「南島エッセイ」は、歴史を語ることに内在する琉球弧と本土との間の政治を意識化し、あらたな歴史=意味を創造する願いとして読みうる。
以上を概括すれば、本稿は島尾敏雄の言説を、書くことと読まれることのあいだの「意味」の闘争の現場として捉え、映画・太宰・探偵小説といったモダニスト的世界から、『夢の中での日常』における文字との葛藤をへて、『死の棘』と「南島エッセイ」におけるポストモダニズムへ、という流れとして描き出そうとしたものである。