本論文は、大きく(Ⅰ)と(Ⅱ)に分けられるが、まず、(Ⅰ)の「嗅覚表現の文学史的展望」では、『万葉集』から『古今集』『源氏物語』に至る文学史の流れを射程に入れて、それぞれの作品において、嗅覚表現がどのような様相を見せているのかを検討した。
第一章の「『万葉集』の嗅覚表現」では、「にほふ」「香」「かぐはし」「かをる」などの用例に検討し、『万葉集』の嗅覚表現が、純粋な意味での嗅覚的用法というより、より精神的・全感覚的なものであったことを確認してみた。上代においては、視覚があらゆる感覚を統括し、感覚そのものが、細分化されないまま機能していたのである。これは一般的に言われているように、単に、古代においては嗅覚的な表現が貧弱であった、ということだけを意味するものではない。同じく視覚的な用法と言っても、あらゆる感覚を統括する視覚と、諸感覚からすくい上げられた形で機能する後世の視覚とは、明らかに位相を異にしているからである。しかし、『古今集』になると、視覚を切り捨てた形で、純粋に嗅覚的な意味として用いられるものが多くなる。第二章の「『古今集』の嗅覚表現」からも窺えるように、『古今集』になって芳香表現は飛躍的に増加したのみならず、その内容においても、『万葉集』の場合とは違って、嗅覚が固有の表現として自立しているからである(第二章第一節)。『古今集』によってはじめて、五感が独立する、新たな「感覚」の世界が切り開かれたのである。これは、『万葉集』と『古今集』との歌風の変質を浮き彫りにしているのみならず、『古今集』以降の『後撰集』や『拾遺集』などとの比較検討からも明らかになったように、いわゆる『古今集』的な表現の特質とも深く関わるものである。例えば、『古今集』によって達成された「非在の梅」(第二章第二節)、すなわち「不在の景物を歌う表現」は、「観念的な思考」を要とする『古今集』の典型的な表現であると言えようが、『古今集』の性格の一部をそこに認めるならば、ものの香を詠じることは、まさにそのような古今集的表現を成り立たせるための恰好の素材であったと思われる。このような嗅覚表現には「漢詩文の影響」が著しく窺えるが、それと同時に、平安初期以来発達した薫物の流行も視野に入れるべきで、「袖の香」をキーワードにして、『古今集』の嗅覚表現における「薫物」の影響を考えてみた(第二章第三節)。そして、『古今集』が開拓した「袖の香」の斬新性が、『後撰集』や『拾遺集』の和歌の世界ではなく、新しく誕生した物語というジャンル、特に『源氏物語』において有効に機能することから、『古今集』の芳香表現が持つ先端性・斬新性の真の継承者は、『源氏物語』に他ならないと捉えた。
というのも、『源氏物語』には、実に様々な香りが登場し、なおかつ、奥行き深い表現として機能しているからである。「空蝉物語の「いとなつかしき人香」考ー『古今集』との表現的関連についてー」(第三章第一節)に見られる「香」は、人柄の表象として用いられたもので、「浮舟物語における嗅覚表現ー「袖ふれし人」をめぐってー」(第三章第二節)は、回想の場面において嗅覚表現が如何に有効であったかを如実に見せている。言語化が困難な「身体的な感覚」としての嗅覚が、その独特な性質によって、尼になった浮舟の内面を掘り下げているのである。なお、「「匂ふ兵部卿・薫る中将」考」(第三章第三節)のように、「にほふ」と「かをる」という、嗅覚的な名称も上代からの文献や『源氏物語』の用例を参考にその象徴性が確認されるところである。これらの他にも、『源氏物語』には枚挙にいとまのないほど様々な香りが登場するが、代表的なものとして、六条御息所における「芥子の香」と、薫の天性の「芳香」の問題など、二点について考えてみた(第三章第四節)。六条御息所を苦しめる「芥子の香」が、芳香ならぬ、「一種魔術的な形相を持っている」ものとするならば、「香のかうばしさぞ、この世の匂ひならず」(匂宮④二六)とされる、薫の天性の「芳香」は、仏教的な意味合いが深くこめられた「神聖な香り」で、明らかに異質のものだからである。以上のように、『万葉集』『古今集』『源氏物語』の嗅覚表現を中心として感覚の問題を考えた(Ⅰ)から視点を変え、(Ⅱ)の「五感をめぐる『源氏物語論』」では『源氏物語』を中心に、「聴覚」と「視覚」の問題について考えてみた。まず、「『源氏物語』における聴覚表現」では、聴覚的印象を通して、具体的・立体的に臨場感溢れる視覚的な世界が再現されること、なお、その場面描写が、登場人物・作者・読者の、それぞれの「感覚の共有」を前提にしている点に注目し、同じく「感覚の共有」を前提に制作・享受される屏風歌の表現との関連性について考えてみた。「『源氏物語』における視覚表現」では、源氏の「須磨」の住居が、漢詩の一句を絵画的な構図として文章化したものであったこと、なお、「東屋」の名高い場面から、『源氏物語』には、実際の様々な絵画が取りあげられる他、「絵画的なもの」の想像力に支えられる場面が多く存在することを確認し、「絵を伴った物語の享受」という観点から、視覚の重要性を再度確認し、但し、そこに見られた「視覚」というのは、諸感覚を統合する意味での「視覚」ではなく、より純化された、五感の一つとしての個別的な感覚としてのそれであったことを、『万葉集』の「見れど飽かぬかも」と『源氏物語』の「目とまる」の間に見られる異質性を通して確認してみた。そして、『源氏物語』の感覚が、五感を統合的なものと捉える『万葉集』的な感覚とも、「心」と「言葉」の乖離を仲立ちし、自立する言語世界に身を捧げる『古今集』的な感覚とも位相を異にし、「心」に寄り添う「感覚」として展開されることを確認した。