七世紀後半から八世紀にかけての地方制度、とりわけ評制と郡制について、両者が一括してコホリ制とでも呼ぶべき新たな制度で、大和政権段階の国造のような在地首長の支配がそのまま制度化されたものではないことを明らかにした。
第一部「八世紀の郡司制度と在地」では、終身官である郡司が実際には十年未満で交替している実態から、当時の在地には郡司候補者というべき在地の有力者が同一郡内に多数存在しており、実際に郡司職は彼らの間で持ち回り的に移動していたことを指摘した。
第二部「仕奉と性」は、庚午年籍の作成にともなう定姓作業を通して、称号や私的呼称から「姓」が制度化されたが、諸豪族は自らが持っているさまざまな仕奉(王権への奉仕の実績、またはその職掌)の中から、現時点で最も政治的訴求力があると判断した仕奉にもとづいて「姓」を選択し、戸籍への登録を図ったことを指摘、「姓」は父系血縁集団の名称としてよりは、仕奉の依代として受け入れられことを論じた。
第三部「評制とその在地構造」は、評制の成立過程とその構造を論の中心にすえ、郡制との連続性を追究した上で、複数の首長をコホリノミヤツコという首長に擬するという、その制度の画期性を論じた。
第四部「越中石黒系図と越中国官倉納穀交替記」は、「郡領職=在地首長の族長位」という理解を裏付ける史料とされてきた越中石黒系図が、越中国官倉納穀交替記の写本を参照して作られた偽系図であることを論証した。
第五部「式部試練と郡司読奏」は、奈良~平安時代に行われていた中央における郡司任用手続きについて、服属儀礼としてでなく政務手続きとしての側面から分析、その内容を詳細に明らかにした。