明治時代を代表する日本画家である菱田春草の作品世界は、新しい美術を造りだそうとした岡倉天心の理念から大きな影響を受けた。題材や造形的表現から大きくみて二つの時期に分けることができる。その第一の時期は明治42年に描かれた「落葉」以前の時期、つまり、「寡婦と孤児」や「拈華微笑」、「王昭君」などが描かれた時期で、ジャンルからいえば歴史画が主流をなしている。東京美術学校の卒業作品である「寡婦と孤児」は、その画題で特定の歴史人物を取り上げていないにしても、春草の歴史画では代表的な作品である。画面の中の二人は寡婦と孤児である常盤御前と牛若丸、つまり、後の源義経だと推定される。線描を中心とした画法は、西洋画法との違いを明確にする日本画法の正体性の根拠であったことを示している。同じ態度は、明治30年の「拈華微笑」にも窺える。釈迦と弟子たちが登場するこの絵は、仏教復興の背景に釈迦の生涯を絵画化しようとする動きの中で制作された。絵の内容が禅宗の教えを端的に表わしている点や当時キリスト教に対する仏教の動きを考えると、ダ・ビンチの「最後の晩餐」を意識し、キリスト教より禅宗仏教の優位を認める春草の宗教的発言が込められていたと思われる。
いわゆる朦朧体で描かれた「王昭君」は、東洋歴史画題募集や歴史画論争など歴史画に関する論議が盛んであった時期の作品である。その優雅な女性群像は、大観の「屈原」に対して為された怪奇な人物という批判や、歴史画は歴史人物の高潔美を表現すべきだとする歴史画論争を踏まえた作品と思われる。この作品では朦朧体画法を人物描写に適用しているが、同じ時期、風景描写で見る朦朧体画法は当時の洋画に刺激され、風景描写のリアリテイー追求した結果であり、西洋画法を意識しながらも伝統画法をもって対応しようとした態度をそのまま表わしている。その意味で、「絵画に就いて」において朦朧体が日本と中国の伝統画法を参考にしたとする内容は、そのまま真実と受け止めてもいい。
一方、第二期といえる時期に描いた明治42年の「落葉」は、まず題材が歴史や宗教から風景へと変ったことを物語っている。現存している一群の「落葉」の制作順番は二曲一隻、文展作、福井県立美術館所蔵の六曲一双、茨城県近代美術館所蔵の二曲一双とみるのが妥当なように思われる。そこには退行現象が見られ、文展受賞以後の注文に応じた春草の制作態度の変化が窺われる。同じ画題の注文作に取り組むに当っては最初の緊張が解れ、単純化した画面構成や、個々のモチーフ描写にみるマンネリ化などが見られる。この絵に目立っている絵画表現は琳派の絵画表現と類似したもので、その始まりは明治31年の「武蔵野」に見られるが、次第に強化していった。だが、それは西洋人による琳派の評価を背景にしたものであった。つまり、春草の作品にみる琳派への評価は西洋という他者の目を通しての自己規定の結果とみえ、それを積極的に取り入れたこと自体が画法における西洋への対応の一つの方法であったと言える。そのような態度は「黒き猫」にも示されており、春草は作品世界の最後の段階で、当時の日本美術の特徴として語られていた‘装飾性’へ傾斜したことは彼が日本の美へと回帰したとも言える。
美術学校で訓練を受け、東西の美術史に関する知識を備えた上で、いつも美術の動きの先頭に立って実験的態度を維持した春草の作品世界にみるこのような特徴は、押し寄せてきた西洋文明によって大きな変化を経験した日本の近代美術の性格、つまり、近代性が西洋への対応を中心に語られるべきであることを示す典型的例といえる。
いわゆる朦朧体で描かれた「王昭君」は、東洋歴史画題募集や歴史画論争など歴史画に関する論議が盛んであった時期の作品である。その優雅な女性群像は、大観の「屈原」に対して為された怪奇な人物という批判や、歴史画は歴史人物の高潔美を表現すべきだとする歴史画論争を踏まえた作品と思われる。この作品では朦朧体画法を人物描写に適用しているが、同じ時期、風景描写で見る朦朧体画法は当時の洋画に刺激され、風景描写のリアリテイー追求した結果であり、西洋画法を意識しながらも伝統画法をもって対応しようとした態度をそのまま表わしている。その意味で、「絵画に就いて」において朦朧体が日本と中国の伝統画法を参考にしたとする内容は、そのまま真実と受け止めてもいい。
一方、第二期といえる時期に描いた明治42年の「落葉」は、まず題材が歴史や宗教から風景へと変ったことを物語っている。現存している一群の「落葉」の制作順番は二曲一隻、文展作、福井県立美術館所蔵の六曲一双、茨城県近代美術館所蔵の二曲一双とみるのが妥当なように思われる。そこには退行現象が見られ、文展受賞以後の注文に応じた春草の制作態度の変化が窺われる。同じ画題の注文作に取り組むに当っては最初の緊張が解れ、単純化した画面構成や、個々のモチーフ描写にみるマンネリ化などが見られる。この絵に目立っている絵画表現は琳派の絵画表現と類似したもので、その始まりは明治31年の「武蔵野」に見られるが、次第に強化していった。だが、それは西洋人による琳派の評価を背景にしたものであった。つまり、春草の作品にみる琳派への評価は西洋という他者の目を通しての自己規定の結果とみえ、それを積極的に取り入れたこと自体が画法における西洋への対応の一つの方法であったと言える。そのような態度は「黒き猫」にも示されており、春草は作品世界の最後の段階で、当時の日本美術の特徴として語られていた‘装飾性’へ傾斜したことは彼が日本の美へと回帰したとも言える。
美術学校で訓練を受け、東西の美術史に関する知識を備えた上で、いつも美術の動きの先頭に立って実験的態度を維持した春草の作品世界にみるこのような特徴は、押し寄せてきた西洋文明によって大きな変化を経験した日本の近代美術の性格、つまり、近代性が西洋への対応を中心に語られるべきであることを示す典型的例といえる。