本稿は、中唐期の偉大なる仏教者であり、伝統的に華厳宗の第四祖と仰がれている澄観(738~839)の主著『大方広仏華厳経疏』(『疏』)と『大方広仏華厳経随疏演義鈔』(『演義鈔』)を中心に華厳教学の中心思想である「法界観」・「唯心観」の問題を集中的に分析し、それを思想史的に位置づけることを目指した。
具体的な論文の構成は下記のとおりである。
第一章「澄観の伝記と学系」では、従来の研究をふまえて澄観の生涯を略述した。特に、澄観は法蔵の華厳思想を復興することに大きな目標が置かれていた。にもかかわらず、澄観の華厳思想を全体として見れば、静法寺慧苑や李通玄の影響も無視できないことを論じた。
第二章「『疏』の著述状況とその内容」では、『疏』及び『演義鈔』の内容や註釈法の特徴などを概観し、概ね法蔵の解釈をベースにしつつも、内容の改変や付加によって自らの独自性を示し、新しく興隆した禅思想に対応するなどの特徴があることを示した。
第三章「澄観の華厳経観」では、「経名解釈」・「教判観」・「禅宗観」・「宗趣観」を中心として、澄観の華厳経理解を検討した。まず、「経名」については、経名を「十仏身」として解釈することで経そのものに権威を与え、「一心」をもってすべての経名を「会通」していること、さらに華厳思想の根幹ともいえる理・行と体・相・用の三大を用いて、七字の経名は何の礙げがなく、相資・相即していると捉えていることに澄観の特色が見られることを示した。「教判観」においては、法蔵の五教・十宗判を継承しつつ、教判と宗判とを明確に分けて「教の宗」という観点をはっきりさせていることを明らかにした。また、慧苑批判の中心は、慧苑が法蔵の五教判を批判して四教判を立てたことや法蔵が捉えた頓教の否定への再批判にあった。天台宗に対しては、別教一乗である『華厳経』を優位とする立場を主張していることなどを指摘した。禅宗観の特徴は、まず、華厳宗と同様、禅宗を「頓教」に位置づけたことであった。また、澄観は、華厳の立場から南北二宗を融和しようとしていたのである。「宗趣観」では、澄観が「因果縁起理実法界不思議」を『華厳経』の宗趣としたのは、華厳法界の無辺性・遍在性と究極性を強調するためであることを示した。また、澄観の十宗判においては、第八・第九宗を頓教・終教に対応させ、それによって禅宗・天台宗をおさめてることを指摘した。
第四章「海印三昧観」では、澄観によって、一乗教義を成立させる根拠であり、『華厳経』の所依の三昧(総定・根本定)であることが強調された「海印三昧」について考察した。澄観は『妄尽還源観』の影響を受けて「海印」を「仏智」と解し、さらに無心にして頓に一切衆生の心念や根欲をあらわすとし、究極的には無尽にして自体顕現する「覚(菩提)」そのものであると捉えていることを示した。
第五章「澄観の法界観」では、澄観における「法界」概念のポイントを(1)理と事との関係を重視した立場からの法界、(2)因果・縁起としての法界、(3)究極性・根源性としての法界として整理した。また、『疏』・『演義鈔』の「法界句」を中心に、「法界の用」・「法界の体」・「法界の相大」という三大説を中心に法界を解釈する澄観の立場を検討した。さらに、澄観の四法界観が、法蔵の新十玄門に基づくとともに、杜順に帰せられる『法界観門』・『妄尽還源観』、さらに慧苑の『刊定記』より影響を受けて成立したことを示した。一方、「別十玄門」は『法界観門』の十門を参照していることを指摘した。
第六「澄観の唯心観」では、「十地品」第六現前地の「唯心偈」及び「夜摩宮中偈讃品」の「覚林菩薩偈」に対する『疏』・『演義鈔』の解釈を中心として、澄観の唯心観の特徴を考察した。
まず、「唯心偈」については、澄観は、『十地論』に由来する「摂帰一心(縁起一心観)」を「推末帰本門」と「本末依持門」とに分け、前者において「一心」を「如来蔵性、清浄一心」と解釈し、法蔵の「十重唯識」を「十重一心」へと転換し、後者については、世諦の立場から差別があるとして六観を立てている。
次に、「覚林菩薩偈」を構成する「十偈」については、慧苑を意識して、覚林菩薩偈は「具分唯識」のあらわれであるとした上で、前の五偈は「約喩顕法」、後の五偈は「法合成観」であると解釈した。澄観がいう「観」とは「心性を観ずる」ことであり、大乗の観は「真如実観」と「唯心識観」が基本であるという。
彼における「唯心」の根本的意味は、「心以外には別の境がない」ということであるが、ここには智儼の旧十玄門における「唯心廻転善成門」の立場が参照されている。さらに、澄観は、法性宗と法相宗との区別を重視し、法性宗の立場こそが「唯心の正義」であるとしている。