中唐期に生を享けた韓愈の課題は、「道が破壊された後に道を全う」(「与孟尚書書」)することであった。この課題を引き受けるにあたり、韓愈はしばしば幽霊(鬼神)の存在に言及する。本稿はなぜ韓愈がそうせざるをえなかったのかをを探り、それを通して上述の課題に韓愈がどう答えたのかを明らかにしようとするものである。
韓愈の独自性は、同時代に生きた盟友とも言うべき柳宗元と比較することで際立つ。柳宗元は、韓愈を批判し、天と人との間に干渉を認めず、鬼神を問題にすべきでないと言う。それは確かに合理的な考え方ではある。けれども見方を変えれば、天や鬼神の人に対する介入、他者の自己に対する非調和的な介入について語った韓愈の方が、目前の不合理を糊塗せず、それだけ「破壊の後」という事態について深く考察したのだとも言える。
韓愈の思想を語る上で避けて通れない「原道」もまた「破壊の後」という状況に敏感に反応したテクストである。「仁」を「博愛」と定義し、「道」を「虚位」だと言うことで、韓愈は儒家の道を道家の道や釈家の道とは次元の異なる、それらを包括する大文字の道として提示する。そしてなぜ儒家の道だけが他の小文字の道とは異なり、他学派を包括するのかを示すため、韓愈は歴史に訴える。すなわち儒家の教えがなければ、道家や釈家が活動しているこの世界自体がありえなかったと主張するのである。しかし「破壊の後」には歴史を語る言説も複数化しており、それらは儒家の語る歴史を歪曲する。この言説の複数化を言説でくいとめることはできず、韓愈は政治力を動員して道・釈の存在を抹消しようとする。韓愈の取ったこの第一の対策は、政治が機能しなくなったからこそ言説が複数化したのだという歴史を忘れたアナクロニズムに陥ったものである。
それに対し、はじめから複数の言説を想定するのが第二の対策である。もはや道の普遍性を標榜することはできない。そこで韓愈は逆に自分の使うことばを徹底的に特異化することで、その特異性のうちに道の唯一性を保持しようとする。何物をも模倣することなく、ただ模倣しないということを模倣すること、この模倣なき継承こそが、破壊の後に道が受け継がれてきた仕方であると韓愈は言う。そしてこの模倣なき継承にふさわしいことばは、「すべてが己から出たもので、一言一句たりとも先人の文章を踏襲していない」(「南陽樊紹述墓誌銘」)奇なることばである。それは容易に他者からの理解を得られない〈私だけのことば〉である。韓愈を中心とした唐代古文運動は、共有すべきものをもたないことを唯一の共有物として、それぞれが独自のことばをつむぎ出していく運動としての共同体であったと言えよう。
しかしこれで、破壊の後、複数の言説が氾濫する中、思い通りに道を継承できるわけではない。韓愈がしばしば言及する幽霊は私に取り憑き、私を操りさえする。韓愈は幽霊が「私の顔つきを憎らしく」「私のことばを味気なくしている」と書いている(「送窮文」)。しかもその幽霊は複数であることが明らかにされる。こうした私に取り憑く幽霊は、〈私だけのことば〉を不可能にする。〈私だけのことば〉は幽霊に共有されている。したがって〈私だけのことば〉自体がすでに複数性にさらされており、そのかぎりで他を模倣することばとの区別は曖昧になる。韓愈は運動としての共同体を構想するにあたり、私の単一性により道の唯一性が複数性から守られると考えた。ところが第二の対策は、一なるものが複数あることは想定していても、一がすでに複数性を帯びていることを考慮していない。私はわれわれ一般でもなければ私でもなく、私は複数として存在する。
この事態にはみずから幽霊になりきることでしか対処しきれないのではないか。「石鼎聯句詩序」は韓愈が行なったこの思考実験の結果を伝えている。しかし私をなくすことで幽霊は私に取り憑くことをやめるが、幽霊が取り憑く相手は私にかぎらない。聯句に参加した劉師服や侯喜のことばは、いくら奇であろうとしても、やすやすと幽霊とおぼしき軒轅彌明により模倣される。幽霊の複数性には対処しきれない。複数性を唯一免れるとおぼしき彌明の〈私だけのことば〉は明かされない。ただ誰のことばをも模倣してしまう彌明のことば、幽霊のことばだけが語られる。この幽霊のことばは現に「ある」。それは単なる共同体批判のための観念的な道具ではなく、むしろそれを利用することで共同体という虚構が成り立つようなことばである。韓愈は操りきれない幽霊の魅力に取り憑かれつつ、それを何とか操ろうと格闘した。韓愈の独自性はこの点にこそ認められる。