江戸の女方の家として五代続いた瀬川家の元祖、初代菊之丞は近世中期の劇壇を代表する女方役者である。菊之丞を切り口として、上方劇壇史、資料考証、役者の芸風、女方論、江戸歌舞伎の興行、曽我狂言、作品論、役者の年譜・芸歴など、多様なアプローチを試みることにより、近世中期の歌舞伎のありようを総体的に把握することができる。
第一章「上方歌舞伎の実事--宝永正徳から享保へ--」では、元禄以降の上方歌舞伎における実事への傾斜の様相、実悪の立役参入、古風の実から当流の実へという実事それ自体の変容、男だての影響下でのさらなる変質など眼目に、演劇史の流れを追究した。
第二章「初期京都役割番付小考」では、東京大学国文学研究室所蔵の芝居番付のうちに含まれる、一見一枚の番付とみえながら実は数点の番付の零葉を切り継いだ初期京都の役割番付の年代や外題を、役者評判記や絵入狂言本の役人替名から考証した。
第三章「元祖瀬川菊之丞の芸風--享保の女方--」では、菊之丞の芸風を考察した。彼は享保半ばの上方で頭角を現し、名女方芳沢あやめの立役転向の失敗を教訓として女方に徹し、芸風の最大の特徴である〈女らしさ〉を獲得する。終生の当り狂言となる「無間の鐘」の上演によって三都を代表する女方に出世。享保後半の江戸下向以後は舞踊に才能を発揮。言語表現を至芸とし、舞踊のような身体表現を初心な芸とするのは、理念化された元禄歌舞伎の価値観であり、菊之丞はそこに転換を迫ったといえよう。
第四章「女方論」では、前章の考察をもととして、菊之丞の女方観を検討した。菊之丞の嫋々としたおやかさは、実人生も含め、全身で女方というものに没入することによって獲得され、所作事に代表される〈花〉によってみずみずしさを保持したのである。
第五章「江戸歌舞伎の興行と狂言--寛保三年『春曙〓曽我』の場合--」では、台帳が残らない場合でも、劇場出板物、役者絵、役者評判記、観劇記録などをよみ解くことにより、狂言を再構成する方法を提示する。江戸歌舞伎の大名題は四番続を標榜するが、享保期ともなると二番目までの上演が通例となる。しかし『〓曽我』は、中途から加えられた「女鳴神」が好評を得、七か月の長期興行となって四番続全幕が完結した。上演の過程を復元していくなかで、江戸歌舞伎特有の興行システムと、狂言の内容があきらかとなる。大名題には狂言名と興行名の二面があり、初春の頃は『〓曽我』は狂言名でも興行名でもあったが、「女鳴神」の成長とともに興行名のみの位置に後退していく。
第六章「江戸歌舞伎の曽我狂言--藤本斗文の二作品--」では、まず前章でふれることのできなかった役割番付のかたりを検討し、かたりも劇内容を忠実に反映するとの結果を得た。ひき続き『〓曽我』と最古の揃った江戸台帳である宝暦三年『男伊達初買曽我』との比較考察をおこなった。台帳の欠損部分は、前章の手法にかたり等も加えて復元した。『初買曽我』でも大名題は興行の枠組として機能する、こうした大名題の性質がもっともよく表れたのが初春定式の曽我狂言である。曽我の世界は隣接する諸世界を含みこんだメタ世界となっており、狂言をより重層化していく。
第七章「書替女狂言「女鳴神」をめぐって」では、第五章の成果をもとに作品論を試みた。女武道物が書替女狂言の主流をなしたが、「女鳴神」は武道物ではない。その定型を創りあげたのは、『春曙〓曽我』における上演例である。「女鳴神」は「鳴神」を主題ごと書き替え、恋情と嫉妬という女狂言にふさわしいテーマを獲得した。とくに『〓曽我』における演技類型は、嫉妬事ないし怨霊事の形をとる。このような狂言と人物の構想には、主演の菊之丞の芸風が深く関わっているのである。
第八章「元祖瀬川菊之丞出勤年譜」は、本論文の基盤をなし、本稿全体の資料目録ともなる。役者評判記・絵入狂言本・絵尽・諸番付・音曲正本・役者絵・年代記・随筆・歴史史料等入手されるかぎりの資料により初代菊之丞の生涯の事績をたどる。
第九章「三代目瀬川菊之丞の芸歴」では略年譜を論文形式の記述とした。三代目は宝暦元年、大坂の振付師の子として生まれる。安永二年度中村歌右衛門座『尾上菊五郎不登噺』劇中で菊之丞役を勤めたのが縁となり、二代目の遺言で江戸に呼び下されて瀬川家を相続する。文化七年没。享年六十。瀬川家の繁栄を決定的なものとした功績は大きい。
以上、瀬川菊之丞を軸として、演劇資料、役者の芸風、女方論、江戸歌舞伎の興行、曽我狂言、作品論、役者の年譜・芸歴などを考察し、さまざまな方面から、種々の方法を用いて、近世中期の歌舞伎の具体相を解明した。