本論文では世論が本質的に有する公共性という側面に焦点を当て、社会全体における意見分布情報が世論形成過程において重大な影響を及ぼすこと、ただし意見分布情報に対する反応は、その受け手がどのようなリアリティの中に生きているかによって異なり、その影響はすべての人々をひとつの多数派意見に染め上げるというような、単純な過程ではないことを論じる。
まず第1章では、公共性の概念を中心に世論形成の心理的プロセスにおける諸問題を提示し、続く第二章では、世論過程において重要な役割を果たすマスメディアと世論の関係について、マスメディアの効果論をはじめとする過去の知見を紹介しながら論じる。
世論に対するマスメディアの機能の一つは意見分布情報の提示であるが、現実には意見分布はしばしば誤って認知されている。なかでも頻繁に報告されるのが、合意性の過大推測現象(falseconsensuseffect)であり、類似した他者との接触もその一因とされている(c.f.,MarksandMiller,1987)。第三章では意見分布認知とソーシャル・ネットワークに関する先行研究を概観し、政党支持について現実の意見分布が等質なネットワークを形成していること、またネットワーク内の等質性が高まるほど回答者自身の政党支持もその影響を受けているという実証データを示す(研究1)。
それでは、このような等質なネットワークはどのようにして形成されるのであろうか。また、ひとたび等質なネットワークが形成されたとしたら、全ての人々に同じ情報をもたらすはずのマスメディアの情報は、ネットワークによって異なる意味を持つのではないだろうか。そこで第四章では態度の等質なネットワークが形成される過程と、等質なネットワークに対する全体分布情報の効果を、適応エージェント・モデル(cf.,Axelrod,1997;Lataneetal.,1994)に基づく2つのコンピュータ・シミュレーション(研究2,3)によって検証した。その結果、全体分布情報のフィードバックを組み入れたモデルでは、直観に反して少数派がより残存しやすくなる傾向が見られた。これは、全体分布情報が等質なネットワークに異質な情報をもたらすものとして機能したことによると考えられる。社会全体の世論をネットワーク内の意見分布と異なって認知している場合にはネットワーク内の少数派が残存しやすくなることは世論調査による実証研究でも確認された(研究4)。
自らの、あるいはネットワーク内で共有されている態度によって、同じ情報が異なる意味を持つとすれば、マスメディアと世論に関する理論をソーシャル・ネットワークとの関連から再検討する必要があるだろう。第五章では沈黙の螺旋を再検討し、争点態度の方向性と意見強度によって意見分布の認知のメカニズムとソーシャルネットワークの効果が異なることを示す。95年当時の日本の常任理事国入りの争点に関する「沈黙の螺旋」仮説の検証において、意見分布情報により意見表明の意図が影響を受けるのは「弱い賛成」意見のみであり、世論過程に非対称性がみられた(研究5)。強い意見を持つ人ではネットワークの等質性が高い一方、行動の決定に際して周囲の現実の意見分布に比較的鈍感であり、変化への抵抗力となりうる可能性が示唆された(研究6)。
ただし、「意見の強度」が示すものの意味は、特に争点関心という点からは必ずしも明確ではない。そこで第6章では、争点態度の方向性と争点関心によって世論過程のロジックが異なるという重層的な世論過程モデルの構築を試みる。また、少なくとも夫婦別姓の争点に置いては世論変化が個々人の個人的選好の変容とは別のプロセスであり、異なる意見を受容する許容範囲の変化として生じることを実証する(研究7、8)。許容範囲の変化とは、世論の正当性認知の変化によって生じるものであり、意見分布認知の影響はNoelle-Neumann(1984,1993)が論じたような「孤立への恐怖」によるものではなく、世論の公共性を反映したものであることを論じる。第7章ではまとめとして、世論における公共性と社会における多様性の両立について展望する。