1995年春の、英国労働党党首トニー・ブレアによる党規約改正(公的所有条項の廃棄)は、通念的には、あるいはブレアら「新生労働党(ニュー・レイバー)」の唱道者たちによっても、20世紀を特徴づけた国権社会主義との訣別として、および、労働組合勢力がこの党で伝統的に有してきた隠然たる影響力を中和して「国民政党」へと変貌したことを象徴する事件として、受けとめられてきた。けれども、20世紀前半の英国労働党内の政治的・階層的布置状況を調べてゆくと、これらの見解とは全く異なった様相が明らかになる。すなわち、草創期の労働党で産業国有化を初めとする公的所有の拡延を主唱していたのはブレアと出自の似通ったミドル・クラスであり、労働組合勢力は国有化のような今日的な意味での社会主義色の強い政策に対しては消極的、場合によっては敵対的ですらあったのである。本論文は、このように20世紀前半の英国労働党と産業国有化を題材としつつ、ミドル・クラスと社会主義の関係を歴史的な視点から照射するものである。
1918年に労働党が初めて明確な社会主義的信条として公的所有条項を採用したことのうちには、2つの主要な要因が働いていた。一つには、それまで労働党イデオロギーの重要な一角をなしていた非国教派キリスト教の、またそれを体現していた独立労働党の倫理的改革思想が、社会の世俗化の波に押されて、さらには第一次世界大戦初期の労働者大衆の熱狂的愛国主義のために、正当性を失って凋落したことである。もう一つには、組織資本主義化の流れの中で新時代の新結合(シュムペーター)の担い手としてのニュー・ミドル・クラスが台頭して、経済活動だけでなく社会主義運動の中にまで深く浸透していったことである。第一次大戦中に、独立労働党の2人のプロレタリア出身ミドル・クラス(ケア・ハーディとマクドナルド)が死去ないし権威失墜して、代わってテクノクラート型ミドル・クラスの権化とも言うべきシドニー・ウェッブが党の中枢部に入ったことは、この2つの過程の進行を象徴していた。1906年の結党以来、社会主義を掲げない労働組合勢力と社会主義ミドル・クラスの寄り合い所帯であった労働党は、ウェッブが起草した18年の公的所有条項によって初めて、後者勢力のヘゲモニーの下に今日的意味での社会主義政党に変貌したのである--これは社会主義そのものの世俗化をも意味した。
その後、アトリー政権期に至るまでの公的所有条項の実践過程もまた錯綜しているのであるが、重要な点は、労働組合が次第に公的所有を受け入れてゆくようになる一方で、先進的に公的所有を実践していたのは(特にロンドンの)ミドル・クラス主導の都市社会主義だったということである。ロンドンから中央政界に躍り出たモリソンは公的所有の方法として、労組勢力の経営参加を否定する「公社」を唱えて、彼らと対立し続けた。また、1930年代に英国史上ほぼ初めて群として出現した知識人=「ハイ・ブラウ」は、現実政治への影響力は軽微であったけれども、その高い言語操作能力のゆえに、社会主義を定義し、さらには「現実」化する上での役割は大きかった。「ハイ・ブラウ」によって、あるいはなお個々には宗教的・倫理的社会観を保持していた労働党政治家によって、第二次大戦は理想的な「民衆の戦争」、つまり階級障壁が打破される総力戦体制として「現実」化され、この戦時の「社会主義的」雰囲気がアトリー期の社会主義政策に繋がったという定式化もなされてきた。しかし、こうした社会主義的ミドル・クラスによって作られた「現実」とは別のところに労働者および広範な国民大衆の実際の生活・価値観はあったわけで、そのギャップによってアトリー政権の産業国有化に代表される社会主義政策は早期に後退を強いられていったと考えられる。
本論文は理論的には、ミドル・クラス一般の概念史に光を当てつつ、社会主義的ミドル・クラスの3類型(プロレタリア出身者、テクノクラート型ミドル・クラス、「ハイ・ブラウ」)をも定式化した。第1類型から第3類型へと時代を下るほど彼らは、労働者大衆の生活世界から乖離した独自の世界認識をするようになる一方で、大衆を教化・煽動してゆくことへの情熱を消失していったと言える。ブレアら「新生労働党」のミドル・クラスはそのいずれにも属さず、テクノクラート型国権社会主義を忌避して18-19世紀の宗教的・倫理的社会主義への先祖返りを構想しているのだが、自らの理念の参照・準拠対象を現実社会の階層的存在(例えば「労働者階級」なり「ロウ・ブラウ」なり)に求めることがなくなったという点では、独自性もあるかもしれない。