日本は、いかにして「旧外交」を形成したのか。そして、日本の「旧外交」は、どのような運命をたどったのか。
第I部
専門官僚制化に伴う外務省の一体化・自律化が日清戦後~第一次世界大戦期に確立して行く過程を分析する。
第1章外交官を特別官とするため、1893年に試験制度が導入され、独自の試験・任用制度は外交官・領事官・外務省高等官の一体性を徐々に醸成することとなった。外務省の自律化への動きは組織改正案にも見られ、他省と異なる独自の組織原理を導入しようとしたのであった。しかし、外交官への系統的養成はそれに追いつかなかった。
第2章一体性・自律性を強めていく外務省は、加藤高明外相のとき元老への外交文書配布拒否を試みたが、失敗した。しかしながら、元老の物理的退場は、結果として外務省の自律化に有利に働いた。他方、枢密院の反発を元老の力と天皇臨御・勅語下賜という手段を借りて押え込んでいたため、元老の退場により、逆に枢密院に対しては抑えが効かなくなる。
外務省と陸軍は南満州行政統一問題で争ったが、制度の統一を好んだ寺内内閣下でも、都督が南満州駐在の領事官に対する指揮監督権を獲得出来なかった点で変わりがなかった。続く原内閣は、逆に武官都督制を廃止した。
帝国議会は外交決定に関与出来ないがために、政府弾劾的な質問権を行使せざるを得なかった。また、外務省が戦時に国民の支持を調達するため外交文書を帝国議会に提出したことから、平時における外交文書の公開を議員が要求することにもつながった。
第3章衰退し始めた元老に代わって、寡頭政策決定グループの統合機能の代替を企図されたのが臨時外交調査委員会であり、政党や枢密院の指導者をも取り込むものであった。立憲政友会総裁の原敬も積極的に参加したが、講和条約批准後は同会を軽視するようになった。
このように、最初の本格的政党内閣とされる原内閣は結果的に外務省の自律性を擁護した。しかし、外務省の自律化の進展は外務省による外交の一元化を志向させ、逆に寡頭政策決定グループ・レベルでの外交の一元化を破ることこととなった。
第II部
日露開戦原因に関する通説的解釈を塗り替えることが第†部の目的である。
第1章日本政府は日清戦後、ロシアとは韓国問題のみを交渉しその枠組み内で譲歩する方針であった。しかし、1900年にロシアが満州へ侵攻すると、外交官系統は早くも満韓交換論に移行し、元老や桂首相も翌年12月までに移行した。彼らは、日英・日露の二股交渉をして有利な条件を引き出そうとする点で一致していた。しかし、イギリスから二股交渉を警告されると、途中から二股交渉の危険性に気付いてとりあえず日英同盟締結を優先する立場と、二股交渉を続けようとする立場とが対立した。これは誤解からの対立という側面が強かった。
第2章日本は、日英同盟条約調印前から日露交渉を打診し始めた。その際の交渉方針は、満韓交換論aから始めて最終ラインとしてbまで譲歩するというものであった。しかし、1903年4月8日の第二期撤兵をロシアが履行しなかったため、満韓交換論の内容がより強硬なものへとシフトした。
他方、ロシアは露清間の問題である満州問題に日本が干渉し、満州問題と韓国問題の一括処理を図ること自体に不満であった。
第3章1903年8月に開始された日露交渉において、日本側の要求は満韓交換論aからbに近づいて行った。1903年12月より内閣側と元老の伊藤・山県との間で意見対立が見られたが、それは満韓交換論aで圧力をかけつつbに至るという従来の方針を堅持する前者と、満韓交換論bの即時提議による交渉中止・一部妥結と韓国への限定的出兵を主張する後者との対立であった。他方、ロシア側の論理も、日露交渉が緊迫化するにつれて対清・対日交渉の二本立てから対日交渉に一本化し、さらに満韓交換論cからbへと転換しつつあった。
よって、日露交渉の最終局面で伊藤・山県の方針が実行されたならば、もしくは日露交渉自体が継続したならば、戦争に至らなかった可能性がある。日本は、多角的同盟・協商網の構築に失敗したのである。
第III部
日本政府は、東西間の人種・宗教の違いにより不利が存在し、新興国として活動の自由を拘束されることから、既に家屋税事件の敗訴以前に仲裁裁判条約へ不信感を抱いていた。しかし、敗訴以前はその不信感は絶対的でなかったのが、敗訴により強まったのである。そのため、日露戦後は仲裁裁判条約に出来る限り応じない方針を採った。しかし、仲裁裁判条約締結の提議が続くことで、国際情誼上の観点から日米仲裁裁判条約の範囲内なら応じるという方針転換の試みが牧野外相時に存在したが、実現しなかった。また国際平和委員会設置条約についても、加藤外相がカリフォルニア州移民問題との同時解決を志向したため失敗に終わり、同じ連合国であるアメリカから非難を被る結果に陥った。