本稿は、「近代民衆宗教」、とりわけ天理教、金光教を取り上げ、<他者>としての「民衆宗教」「新宗教」に接近することを通して、宗教学的な叙述・分析の可能性を求める研究である。方法として、最も基本的な語彙と思われる「お道」「信心」という言葉に着目するとともに、「お道」「信心」といった語彙で構成される、天理教、金光教の共通の構造を問題にして、「お道」の歴史の対象化を試みた。
まず、近世の民衆の「信心」から、「道」「お道」という言葉で表象される「信心」が生成し、それが近代国家・社会において「天理教」や「金光教」といった「宗教」の性格を備えていく過程の諸問題の考察を試みた。第一章では、明治初期に至るまでの「お道」と「信心」の性格を尋ねた。「道」という言葉は「信心」の世界を表象する有効なメタファーである一方、中世以来の「道」の思想的伝統が、近世には中山みきや金光大神が自らの「信心」を「道」として語る表象の場を用意した。「道」は集合的な次元で「お道」と呼ばれるようになるが、「お道の信心」は、民衆の「信心」の世界に根ざしつつも、対象の専一性、継続性、「教え」の聴聞などに転回の契機があった。さらに開放性・多元性という、「近代宗教」のそれとは異なる特徴を持った。第二章では、「お道」が教派神道化し「宗教」という性格を備えるに至る、明治中期の「お道」の歴史の再検討を試みた。そこでは教団の形成によって生じた「教務」が、個々の「信心」を社会的に組織化していくが、彼等は「お道」の立場を堅持し、「神道」という「擬態」を方便としたのである。天理教や金光教が公認教団となる明治後期から大正期になると、制度化された「宗教」の外部に「宗教」の「本質」を求める思想的・実践的潮流が形成されるが、「お道」の青年層でも、「お道」の「宗教」としての「本質」への問いと、主体的な「信心」の確立に向けた問いが生起する。そこで「お道」という言葉は、「お道とは何か」という問いを誘起する問いの媒介語になるとともに、様々な思想潮流を「お道」の伝統へと媒介する。
次に補論として、明治後期の知識人を中心とした宗教運動を考察した。新仏教運動は、明治20年代後半の啓蒙主義的な「時代の新精神」に呼応して、「自由討究」を通して、「新信仰」「新仏教」の創出を目指す運動だが、それは近代仏教教団が、伝統的権威と教団権力を強化したことに対応するものでもあった。また、雑誌メディアの普及と読書行為の変容などがあり、彼等はそれを受けて機関紙『新仏教』を運動の実践の場とする。他方、内村鑑三もまた、「真正の教会」の理想を追求するにあたり、その機関紙を「紙上の教会」と位置づけた。このように明治後期には、活字メディアの発達などの文化構造の転換を反映して、非(反)教団的な宗教運動が展開した。
続いて、「お道」と「教団」、「信心」と「教え」の言葉、という二つの主題に添って、金光教の事例を取り上げて考察した。第三章では、金光教の高橋正雄における教団論が生起する場と意味を考察した。金光大神の死後、「お道」は、諸個人の生に根ざして拡散する方向、金光大神の「教え」に向けた求心的・求道的な方向、「教団」によって斉一化される方向へと重層化するが、公式教義、「教え」の伝承、「取次」などの伝統は、一貫した論理で把握できるものではなかった。管長と教団の葛藤に起因する「昭和九・十年事件」は「お道とは何か」をめぐる広範な問いを誘起したが、その混乱を収拾した高橋正雄は、「お道」を「取次の道」とし、その「本質」を「教祖」の生涯を貫く「道」に見出し、そこから「教団」の意義を捉え直すという、「教団」論を形成していた。それは、「教団」を「道」を歩むべきものとする「教団」論であった。第四章では、個々人の「信心」における「お道の信心」への問いかけと聖典的な「教え」の言葉との関係を考察した。明治後期から昭和初期にかけての大阪で活動した湯川安太郎は、自らの病気を契機に金光教に入信するが、体験主義的に「信心」を進めていた。しかし、回心体験を通して独自の「信心」を見いだすと、金光大神の「教え」の言葉を価値あるものとして発見する。「教え」の言葉が、金光大神の体験から導かれた、「天地」の「教え」であるという確認である。湯川は自らの「信心」を、「教え」の言葉によって再解釈していく。それは、湯川の個性的な「信心」が「お道」への問いを媒介に創造的に展開するとともに、「お道の信心」を再創造することであった。
最後に、いままで十分に顧慮してこなかった<他者>の語彙との新たな出会いが、宗教学の可能性を開く重要な契機となるのではないかと問いかけた。
まず、近世の民衆の「信心」から、「道」「お道」という言葉で表象される「信心」が生成し、それが近代国家・社会において「天理教」や「金光教」といった「宗教」の性格を備えていく過程の諸問題の考察を試みた。第一章では、明治初期に至るまでの「お道」と「信心」の性格を尋ねた。「道」という言葉は「信心」の世界を表象する有効なメタファーである一方、中世以来の「道」の思想的伝統が、近世には中山みきや金光大神が自らの「信心」を「道」として語る表象の場を用意した。「道」は集合的な次元で「お道」と呼ばれるようになるが、「お道の信心」は、民衆の「信心」の世界に根ざしつつも、対象の専一性、継続性、「教え」の聴聞などに転回の契機があった。さらに開放性・多元性という、「近代宗教」のそれとは異なる特徴を持った。第二章では、「お道」が教派神道化し「宗教」という性格を備えるに至る、明治中期の「お道」の歴史の再検討を試みた。そこでは教団の形成によって生じた「教務」が、個々の「信心」を社会的に組織化していくが、彼等は「お道」の立場を堅持し、「神道」という「擬態」を方便としたのである。天理教や金光教が公認教団となる明治後期から大正期になると、制度化された「宗教」の外部に「宗教」の「本質」を求める思想的・実践的潮流が形成されるが、「お道」の青年層でも、「お道」の「宗教」としての「本質」への問いと、主体的な「信心」の確立に向けた問いが生起する。そこで「お道」という言葉は、「お道とは何か」という問いを誘起する問いの媒介語になるとともに、様々な思想潮流を「お道」の伝統へと媒介する。
次に補論として、明治後期の知識人を中心とした宗教運動を考察した。新仏教運動は、明治20年代後半の啓蒙主義的な「時代の新精神」に呼応して、「自由討究」を通して、「新信仰」「新仏教」の創出を目指す運動だが、それは近代仏教教団が、伝統的権威と教団権力を強化したことに対応するものでもあった。また、雑誌メディアの普及と読書行為の変容などがあり、彼等はそれを受けて機関紙『新仏教』を運動の実践の場とする。他方、内村鑑三もまた、「真正の教会」の理想を追求するにあたり、その機関紙を「紙上の教会」と位置づけた。このように明治後期には、活字メディアの発達などの文化構造の転換を反映して、非(反)教団的な宗教運動が展開した。
続いて、「お道」と「教団」、「信心」と「教え」の言葉、という二つの主題に添って、金光教の事例を取り上げて考察した。第三章では、金光教の高橋正雄における教団論が生起する場と意味を考察した。金光大神の死後、「お道」は、諸個人の生に根ざして拡散する方向、金光大神の「教え」に向けた求心的・求道的な方向、「教団」によって斉一化される方向へと重層化するが、公式教義、「教え」の伝承、「取次」などの伝統は、一貫した論理で把握できるものではなかった。管長と教団の葛藤に起因する「昭和九・十年事件」は「お道とは何か」をめぐる広範な問いを誘起したが、その混乱を収拾した高橋正雄は、「お道」を「取次の道」とし、その「本質」を「教祖」の生涯を貫く「道」に見出し、そこから「教団」の意義を捉え直すという、「教団」論を形成していた。それは、「教団」を「道」を歩むべきものとする「教団」論であった。第四章では、個々人の「信心」における「お道の信心」への問いかけと聖典的な「教え」の言葉との関係を考察した。明治後期から昭和初期にかけての大阪で活動した湯川安太郎は、自らの病気を契機に金光教に入信するが、体験主義的に「信心」を進めていた。しかし、回心体験を通して独自の「信心」を見いだすと、金光大神の「教え」の言葉を価値あるものとして発見する。「教え」の言葉が、金光大神の体験から導かれた、「天地」の「教え」であるという確認である。湯川は自らの「信心」を、「教え」の言葉によって再解釈していく。それは、湯川の個性的な「信心」が「お道」への問いを媒介に創造的に展開するとともに、「お道の信心」を再創造することであった。
最後に、いままで十分に顧慮してこなかった<他者>の語彙との新たな出会いが、宗教学の可能性を開く重要な契機となるのではないかと問いかけた。