本稿は、中華民国外交档案(外交文書)を用いて、中華民国前期(いわゆる北京政府期、1912~1927年)の外交が如何なるもので、それを如何に捉えるかということを考察する。この時期の外交には様々な側面があるにもかかわらず、敢えて論点を絞らずにこの時期全体を捉えようとしたのは、先行研究のありかたと関係がある。この時期の外交に関する先行研究は、大きく分ければ二つの方向性から成っている。第一は、共産党史観や国民党史観の歴史言説によって、二十一箇条条約などを事例として、その外交を帝国主義迎合的な「売国外交」だとし、また「軍閥」混戦期にあって無力な中央政府の外交には何ら成果が無いとする見解である。第二は、こうした史観を克服するため、あるいは中国の継続的近代化を強調するため、この時期の外交を「修約外交」などの側面から捉え、不平等条約改正にも「革命外交」以上の大きな成果があったとする見解である。前者はポリティカル・ディスコースにのり、実証性に乏しいために、後者により克服されつつある。しかし、日本では後者の側面はまだ看過されがちであり、また国外においても通史を記す際には、前者の方向性で記述されることが多い。後者についても、そうした成果は認められるものの、依然実証性に乏しく、如何に前後の時代との整合性をつけるか、軍閥混戦・分裂という批判にどうこたえるか、また同時代史的にも、また「国民革命」以後も何故、成果無き外交として位置付ける言説が支配的であったのかなどといった問題が残されている。
本稿では、こうした先行研究のありかたに対して、これまで十分に使用されていない外交档案を利用し、先行研究の諸論点を可能な限り克服し、整合性をつけることによって、暫定的な回答を提示し、中華民国前期外交を再構成することを目的とする。そこで、まずその外交を文明国化志向の近代主権国家外交であったとし、その近代外交行政の確立を組織制度や人事制度から考察、次いでその政策理念・立案・執行過程を、最大懸案であった不平等条約改正をめぐる諸政策から検討した。その結果、前記の先行研究にあったように、この時期の外交が多くの外交的成果を挙げていたことを確認するとともに、南方の広東政府でも同じような試みがなされていたこと、革命外交と北京政府の修約外交は相互補完的な関係にあり次政権に継承されていったこと、「統一」「独立」「主権」「これ以上奪われず、奪われたものは奪い返す」「大国化志向」などといった、現在にまで継続する中国近現代外交の鋳型がこの時期に形成されたのではないかという問題提起をおこなった。また、この時期に外交関係の史料が編まれ、記憶作りがおこなわれていたことも示した。
次にこの時期の対朝鮮政策、対シャム政策、あるいは対「非列強」政策などを、主権と宗主というテーマから、具体的な歴史過程の中で検討した。その結果、たいへん微妙であるが、この時期にも宗主の側面から捉える可能性、宗主と主権が重層化したり、絡み合う可能性があることを確認した。それは、朝鮮に対して、条約上は平等であっても自らを列強と同等に位置付けて上位とする政策であり、またシャムとの交渉でシャム国王を漢字で「皇帝」と記すことのできない判断であった。こうした側面を主権と宗主の絡み合いで考えるか、それとも中国外交に伝統的に通底する政治文化とするかは依然疑問である。
そして、国内が分裂状況にあったとする批判に応えるため、広東政府の外交や地方交渉を、外交をめぐる中央と地方という側面から、その歴史過程を検討した。その結果、広東政府には、中央政府としての外交、西南地域を代表しておこなう地域外交、実効支配のおよぶ広東を代表する外交などの三層構造があり、その政策は基本的に北京政府と大差なかったこと、交渉においては表面的には敵対している北京政府と連絡をとりあっていたことなどを示した。また、地方の外交案件については、内政面では中央と連絡をとろうとしない地方政府も、幾つかの条件下では中央政府と連絡をとりあって交渉にあたったことなどを示した。さらに、実効支配領域に乏しく、条約履行能力を問われていた北京政府が、ワシントン会議参加に際して様々な手法で地方を絡めとっていきながら、国内からの要請と国際的な要請との間の調整をおこなっていくさまを示し、さらに関東大震災の際には地方と外国との狭間で苦悩するさまを明かにした。地方と没交渉であったのではなく、むしろ対外的には一致する姿勢を示そうとしたのである。北京政府側の档案を使用しているのでこのような結果になるのかもしれないが、地方から完全に遊離していたわけではないことは確かであろう。