本論文は、『栄花物語』の人間観の考察を通じて、王朝期の精神的基底に迫ろうと試みるものである。
第一章では、道長の栄花の根拠に関する考察を通じて、『栄花物語』が、この世の事象は、人間の意志や力を越えた「宿世」により決められていると見る運命論的な世界観を持っていたことを、「おのづから」などの言葉を手がかりに論じる。
第二章では、『栄花物語』の歴史叙述の視点が、各事象の「今」にあること。そのため、従来『栄花物語』の特性として指摘されていた摂関家の発展の讃美という通念も、時間的前後関係を倒錯して持ち込まれるてはいないこと。摂関家の発展は、主題として叙述の前面に出ているというよりは、基底をなすものであり、そのことによって、栄花から疎外された者も、共感的に描き得ていること。などを論じる。
第三章では、人間には己れの運命は不可知であり、宿世が最終的には否定的なものとしておとずれるものであること。そうした己れの不幸を宿世として受け入れることが、『栄花物語』において、当為として認識されていること。また、それを拒否した顕光や元方らが物の怪と化していること。などを論じる。
第四章では、道長にとっては、子への情愛を成就することが、そのまま栄花をもたらすものであったこと。子への情愛が、「子のかなしさ」という言葉で、人間の本質として捉えられていること。また、道長が、天皇の子への情愛を実現するがゆえに、後見として重視されていること。などを論じる。
第五章では、子への情愛と宿世の受け入れとの関係を公任、斉信、道長のケースに従って考察し、子への情愛を捨てきれず、無常を悟りえないと諦める公任や斉信に『栄花物語』が共感していること。道長の往生は、隔絶した栄花への満足によっていたこと。そのため、他の人間には往生は可能とされていないが、むしろ、極楽が子への情愛という具体的生の場からの抽象として、本質的には願われておらず、仏教思想も抽象として退けられていること。などを論じる。
第六章では、子への情愛というモチーフが、日本の思想史に潜在しつつも、親の背後に天を見る儒教、イザナギ・イザナミを始原と見る国学、仏の慈悲を親の愛になぞらえる仏教といった従来の思想では、相対化されえなかったものであり、『栄花物語』の提示する人間観は、思想史的、倫理学的考察において、今後の課題となすべきものであることを論じる。