いわゆる「現象学的社会学」の現状において、「社会学」がいかにして「現象学的」になるのかという問いが、まともな解答を得ているとはいいがたい。本稿は自然的態度の構成的現象学の自己規定の変化を再考し、自然的態度の構成的現象学の行方を問う。かかる課題に接近するうえで、渡米後のシュッツは重要な意味を持つ。なかでも、もっとも興味深いのはシュッツとミードとの出会いである。シュッツは「偉大なミード」または「偉大な哲学者であり社会学者であるミード」という呼び名を使っている。その一方で、シュッツはミードの行動主義いいかえれば「社会行動主義」に対してたびたび懐疑的な態度をみせる。なにが、シュッツにして一方では「偉大なミード」という呼び名を使わせ、他方で社会行動主義に懐疑的な態度を見せるのかは、シュッツの他者論とそれの日常と持つ関係を解明する手がかりになるだけではなく、ミードの自我論とシュッツの他者論の有意味な結びつけの可能性を探る材料になるのではないかと思われる。
ミードは一方で、ワトソンのそれに通底するような行動主義的な原理に従いながら、他方でその原理において自我という心的現象を捉えるという課題を引き受ける。これをわれわれは自我という内部が外部化するという意味でミードにおける自我の「位相転換」と呼ぶことにする。そして、この位相転換の担い手こそはミードにおけるIにほかならない。ミードはこのことに関して直裁的に論究していないが、ミードの用語に登場するotherとanotherとの差を手がかりにすると、Meが他の社会的・物理的対象と同等にモノとして現れるのは、来るべき状況を予測し、その予測に基づいて自分と他者の役割を見通す能力、すなわち、第三者的視点を獲得する能力による。そして、この能力を持っているのは、当の自分や他者をありうるMeとして捉えることのできるIにほかならない。
ところで、ミード自身が認めるようにIは対話の場に登場しないし、それはつねにMeによって指示されるものとして残る。ミードの観察概念には、行動主義が残っているのだろうか。木のサイコロがリアルであることは、そして、またそれが私だけではなく他の人にも与えられるのは、私の知覚の持つパースペクティヴ性による。しかし、メルロ=ポンティによれば、自然的態度はあたかもその側面の全部が同時に与えられるという誤解を持ちがちである。これは、近代科学が科学的観察に対して対象が完全かつリアルに与えられるとすることに酷似している。ところが、もし木のサイコロの全部の側面が同時に与えられるとするならば、それはもはや木のサイコロであることを止めているのである。
このスタンスからすると、ミードにおけるIが捉えられるのは、ミードのいう対象と行為者との供働、すなわち、この場合には他者に触れ・触れられるというような具体的な他者関係においてであるということができよう。一方、日常をそれが「自然的態度」において生きられる意味において捉えようとするならば、ミードの自我論が向かうべき方向性は、見てきたような二つのIの準位、他のモノと同等な権利において自我を対象にして、それを観察可能なモノにするIの第三者的な視点から捉えられた「として」のIと、触れ触れられる具体的な他者関係において得られるIとの関係を記述するというものであろう。この課題に関して、われわれは、シュッツの他者論を再構成し「生ける現在における他我経験」とそれを類型化していく両義的なプロセスを「日常」という審級に立ち帰って検討する。
結論からいうと、この問題において鍵となるのは他者が他者である所以、他者の「他者性」にほかならない。他者の他者性は、私の「生きられた他者」という経験がその限界として抱えている、私と「他者」とのずれである。このずれが生ずるのは「他者」が「私に生きられること」を「超え出て」それを「生き延びる(outlive)者」として「現れる」からにほかならない。その意味で、<他者というリアリティ>とはそのような「生きられた他者」の両義性つまり、捉えきれない全体性としての「他者」と、それを汲み取るわれわれの切り取りとしての他者構成との競り合いの持続(=過程)の経験であるといえよう。まさにその意味において、つまり、<他者というリアリティ>が生まれるのは「他者」=「自体としての汝」とそれが被る「類型化」の間である。一方で、生きられる「他者」の「他者性」は、その「超越」性からしてシュッツのいう「世界内的人間の存在論的条件」と深く関わっていると思われる。ミードの実験科学者は、「世界そのもの」を論究する関心を持たないかもしれない。が、毎瞬間変化する世界を毎瞬間変化するものとして知覚することこそは、「世界そのもの」についての態度表明にほかならない。
シュッツは「ある種の社会的絡み合いがすべてのコミュニケーションに対して先行する」という立場をとる。ここでいう、ある種の社会的絡み合いこそ「波長を合わせる関係」(mutualtuning-inrelationship)である。シュッツによれば、この関係は「特定の時間次元をともに生きる可能性から由来する」し、そこにおいて「“I”そして“Thou”が生ける現在における“We”の参入者(participants)として経験される」。さて、「波長を合わせる関係」の非概念的側面に注目するならば、この関係こそは「We」という名の手前に布置すべきであろう。その意味で、かりにこの文章が「I」や「Thou」の準位に対して「We」のそれをより基礎的な層とするならば、それはこの語が概念化を被った<名としての「We」>ではない「We」を開示する限りにおいてであるといわねばならない。
シュッツにおいて、「すべての区別」の「始元」は「We」の具体性に求めることができよう。つまり、世界という超越が問いとして与えられた時、「健康で、目覚めた、成人」の答えとして成り立つ<日常というリアリティ>は前概念的な「growoldertogether」という「流れ」から生じ、またこの流れを通してのみ成り立つ「We」である。なるほど、日常的な生において「I」や「Thou」がソレとして生きられるのは、それぞれが「We」の準位に回収され基礎付けられているからであるが、このような基礎付けが可能なのは、いいかえれば、「We」の審級としての内実は、「growoldertogether」という流れ=回収なしには成り立たないのである。「We」とは「I」・「Thou」と同じく、厳密にいえば、「growoldertogether」が自らを開示するそれと同時に隠すぺーズであり契機であるといわねばならない。
ミードは一方で、ワトソンのそれに通底するような行動主義的な原理に従いながら、他方でその原理において自我という心的現象を捉えるという課題を引き受ける。これをわれわれは自我という内部が外部化するという意味でミードにおける自我の「位相転換」と呼ぶことにする。そして、この位相転換の担い手こそはミードにおけるIにほかならない。ミードはこのことに関して直裁的に論究していないが、ミードの用語に登場するotherとanotherとの差を手がかりにすると、Meが他の社会的・物理的対象と同等にモノとして現れるのは、来るべき状況を予測し、その予測に基づいて自分と他者の役割を見通す能力、すなわち、第三者的視点を獲得する能力による。そして、この能力を持っているのは、当の自分や他者をありうるMeとして捉えることのできるIにほかならない。
ところで、ミード自身が認めるようにIは対話の場に登場しないし、それはつねにMeによって指示されるものとして残る。ミードの観察概念には、行動主義が残っているのだろうか。木のサイコロがリアルであることは、そして、またそれが私だけではなく他の人にも与えられるのは、私の知覚の持つパースペクティヴ性による。しかし、メルロ=ポンティによれば、自然的態度はあたかもその側面の全部が同時に与えられるという誤解を持ちがちである。これは、近代科学が科学的観察に対して対象が完全かつリアルに与えられるとすることに酷似している。ところが、もし木のサイコロの全部の側面が同時に与えられるとするならば、それはもはや木のサイコロであることを止めているのである。
このスタンスからすると、ミードにおけるIが捉えられるのは、ミードのいう対象と行為者との供働、すなわち、この場合には他者に触れ・触れられるというような具体的な他者関係においてであるということができよう。一方、日常をそれが「自然的態度」において生きられる意味において捉えようとするならば、ミードの自我論が向かうべき方向性は、見てきたような二つのIの準位、他のモノと同等な権利において自我を対象にして、それを観察可能なモノにするIの第三者的な視点から捉えられた「として」のIと、触れ触れられる具体的な他者関係において得られるIとの関係を記述するというものであろう。この課題に関して、われわれは、シュッツの他者論を再構成し「生ける現在における他我経験」とそれを類型化していく両義的なプロセスを「日常」という審級に立ち帰って検討する。
結論からいうと、この問題において鍵となるのは他者が他者である所以、他者の「他者性」にほかならない。他者の他者性は、私の「生きられた他者」という経験がその限界として抱えている、私と「他者」とのずれである。このずれが生ずるのは「他者」が「私に生きられること」を「超え出て」それを「生き延びる(outlive)者」として「現れる」からにほかならない。その意味で、<他者というリアリティ>とはそのような「生きられた他者」の両義性つまり、捉えきれない全体性としての「他者」と、それを汲み取るわれわれの切り取りとしての他者構成との競り合いの持続(=過程)の経験であるといえよう。まさにその意味において、つまり、<他者というリアリティ>が生まれるのは「他者」=「自体としての汝」とそれが被る「類型化」の間である。一方で、生きられる「他者」の「他者性」は、その「超越」性からしてシュッツのいう「世界内的人間の存在論的条件」と深く関わっていると思われる。ミードの実験科学者は、「世界そのもの」を論究する関心を持たないかもしれない。が、毎瞬間変化する世界を毎瞬間変化するものとして知覚することこそは、「世界そのもの」についての態度表明にほかならない。
シュッツは「ある種の社会的絡み合いがすべてのコミュニケーションに対して先行する」という立場をとる。ここでいう、ある種の社会的絡み合いこそ「波長を合わせる関係」(mutualtuning-inrelationship)である。シュッツによれば、この関係は「特定の時間次元をともに生きる可能性から由来する」し、そこにおいて「“I”そして“Thou”が生ける現在における“We”の参入者(participants)として経験される」。さて、「波長を合わせる関係」の非概念的側面に注目するならば、この関係こそは「We」という名の手前に布置すべきであろう。その意味で、かりにこの文章が「I」や「Thou」の準位に対して「We」のそれをより基礎的な層とするならば、それはこの語が概念化を被った<名としての「We」>ではない「We」を開示する限りにおいてであるといわねばならない。
シュッツにおいて、「すべての区別」の「始元」は「We」の具体性に求めることができよう。つまり、世界という超越が問いとして与えられた時、「健康で、目覚めた、成人」の答えとして成り立つ<日常というリアリティ>は前概念的な「growoldertogether」という「流れ」から生じ、またこの流れを通してのみ成り立つ「We」である。なるほど、日常的な生において「I」や「Thou」がソレとして生きられるのは、それぞれが「We」の準位に回収され基礎付けられているからであるが、このような基礎付けが可能なのは、いいかえれば、「We」の審級としての内実は、「growoldertogether」という流れ=回収なしには成り立たないのである。「We」とは「I」・「Thou」と同じく、厳密にいえば、「growoldertogether」が自らを開示するそれと同時に隠すぺーズであり契機であるといわねばならない。