本研究は、「公共圏の歴史的創造」を主題とし、素材を「日本」史に求める。第一部「社会的交通と権力」は《公共圏》を基礎づける他者との《交通》、その可能性を担う《結社》的関係としての「勧進」を論じ、この中間団体的結社と公権力の関係を問う。第二部「結界と越界-自己像と他者像」は、国家が〈自己同一性〉を調達するためだけに〈他者像〉を構成する機制、その表象を、《結界》という王権のかたちの中に探る。そして第三部「江湖の思想」では、以上に見たパブリックとオフィシャルの二つの意味空間のせめぎ合う関係を踏まえながら、《公共圏》としての「江湖」を発見し、その可能性と不在性とを論じる。

第I章「前近代京都における公共負担構造の転換」は、中世的勧進の近代化、構造変動を論じた。中世末期に見られる勧進の変質(利権化と賤視化)にともなって町共同体から排除され、公共負担の〈媒介的受皿〉を喪失した結果、この領域は出挙の復活など国家による再編と、都市住人自らの負担領域の形成へと《分離》していく。そこに負担意識を引き出すメディアとして棧敷から出版物への転化が見られるが、この公共的なものの萌芽も、閉じた共同体的なものへと還流されていくのであった。

第II章「戦国大名と勧進・御用商人-領国支配の間隙における集財システムと交通圏-」は、中世的勧進における宗教という〈意味性〉の剥奪=〈脱呪術化〉という問題を端的に示す事例として、商人が渡し船の修理費用を不特定多数から徴収するにいたる過程に注目したものであり、それを可能にしたのが〈間隙〉という商業交通圏であったことを明らかにした。

付論1「近世都市災害のメディエーションと権力」は、都市災害という苛酷な状況が産出した、個と個の公的精神のつなぎ目の形成と、権力作用との関係とを論じた。

第III章「都市王権と中世国家-畿外と自己像-」は、王権の自己同一性の要請によって〈他者〉として構成される「東国」問題を論じた。そこではまず平安末期の王権の実態が、中国-四方国という、畿内政権的な自己認識の構造になお強く掣肘された「都市王権」であったことを明らかにし、ひいては、列島内における国家の複数性、内なる華-夷秩序の成立までを浮彫りにした。

第IV章「中世神泉苑と都城の結界性」は、王権を表象する同心方形空間として、神泉苑-都城の中世的展開を論じた。その際、この空間の《結界》性を維持する装置として、後醍醐によって創出された律宗長福寺の分析を中心に据え、《越会》者への転化を論じた。

付論2「存在被拘束性としての洛中洛外-瀬田勝哉著『洛中洛外の群像』によせて」は、中世史家の研究姿勢のうちに、〈存在被拘束性と対象化〉、〈自己同一性と他者〉の問題を見たものである。

第三部江湖の思想

第V章「公共性問題の輻輳構造」は、問題論的構制そのものを取り扱った。ここでは「公共性」という〈日常的概念〉の輻輳関係を説き明かすことを通じて、従来の共同体〈自治〉論が、かえってオフィシャルな権威・権力を強化する言説を産出してしまっていることを批判し、根源的なパラダイム・シフトを提起した。

第VI章「明治における江湖の浮上」は、〈論議する公衆〉としての「江湖諸賢」を見出だしたものである。「江湖」は少なからぬ言説媒体の呼称として用いられ、万人に開かれた〈批評〉空間を産み、そこに明らかに《公共圏》構築の可能性があった。しかるに「江湖」は今日死語となっており、ここに日本における《公共圏》の不可能性という問題が立ち現れているのである。

第VII章「『江湖之義』、あるいは不在の公-中世禅林と未完のモデルネ-」は、「江湖」概念の未完の源流を中世禅林世界に探求したものである。

中世の「江湖」は脱中心的な《交通》空間であるとともに、反共同体的規範として立ち現れ、かつ『瓢鮎図』に代表されるごとく《オホヤケ》からの逃走の場として認識されていた。一方、禅刹住持公選の場では、中国起源の叢林の法としての「公」が日本的《オホヤケ構造》を相対化し得る可能性を持っていたが、「『江湖』の公挙など行なわれていない」として、中世においてすでに日本社会に不在のものと認識されていた。ここに、日本社会独自のパブリックなるものの存在を見出だそうとする既往の議論は、破産したと言える。

全体として本研究が、過去の研究よりさきに踏み出した点があるとするなら、それは、〈かつてあったもの〉を掘り起こすことによって自己像を正当化する営みから訣別して、〈かつてにおいても不在と認識されたもの〉を抉り出したことであろう。