本論文の課題は、ヴォランタリー・アソシエーションに焦点を当てながらイギリス名誉革命体制下で形成されてくる社会政策の特質を把握しようとすることである。その際、本論文では対象を二つの次元に分けて考察する。

第一に、地方都市バーミンガムにおけるローカルな事例から、ヴォランタリー・アソシエーションの発生する社会的起源を基底的レベルにおいて捉え直す。医療と教育の領域でのヴォランラリー・アソシエーションの発生は、既存の救済システムの不備を補う形で発展してくる。まず教育の領域において、日曜学校が設立された。既存の慈善学校は、18世紀前半に設立されたが、宗派毎に分裂した学校が併存し、平日学校のため労働に携わる児童が参加できないという欠陥を持っていた。アメリカ独立革命戦争後の「国民」的危機意識の高揚は、「非宗派的日曜学校」という慈善学校が孕んでいた問題を一挙に解決する方法が提示されることになった。しかし、危機意識の衰退と新たな政治的社会的対抗関係の生成によって、この運動は分裂を余儀なくされてゆく。これ以後、児童教育は宗派原則に基づいて展開することになる。他方、医療の領域では、七年戦争後の大衆的貧困状況に対応するために「任意寄付制病院」が設立された。確かに、バーミンガムにおいては、ワークハウス付属の「施療院」が存在していたが、これはセツルメント(定住権)を持つ者の救済に限られることになる。都市化に伴う労働力の移動のたかまりによって、定住権とを持たない労働者の流入が増大し、救貧法体制の不備が明らかとなる。こうした状況を改善するため、身体的治療に加え、モラル・リフォメーションの役割を担うバーミンガム総合病院が任意の寄付によって設立されたのである。この病院は、アソシエーションの原理を持ち、新興のミドルクラスに社会活動と階級的結合の機会を提供することにもなったのである。バーミンガムの事例が示すように、ヴォランタリー・アソシエーションの結成は、工業化や戦争などの社会変動によって既存のセイフティネットが破壊されたとき、それを再構築するためにイギリス固有の文化的諸資源を動員しながら行われたものであった。

第二に、ロンドンに本部を置き全国組織として結成されてくるヴォランタリー・アソシエーションは、各地域間の連絡と調整という機能を担うことになった。伝統的に社会政策への取り組みは、教区レベルでの救済システムを基礎としつつ、個別課題ごとに議会制定法やアソシエーションの設立することによって、基本的には名誉革命体制の「地方的自律性」の枠内で処理されてきた。しかし、ナポレオン戦争への戦時体制への大衆的動員によって発生する貧困状況に対して、既存の統治政策には自ずと限界が示されることになる。戦争によって惹起される救貧税の高騰、それに加えて食糧危機・疫病・失業・道徳的アノミーといった諸問題に対して、教育・医療など福祉全般に関わる総合的対策が求められていたのである。「貧民の状態改善協会」(theSocietyforBetteringtheConditionandComfortofthePoor)が設立されるのは、まさにこうした戦時動員体制の社会的矛盾が大衆的貧困状況の形を取って全国的規模に於いて噴出し始めたその時期であった。それは、ナポレオン戦争中に発生した食糧危機を直接の契機として設立され、戦争の終焉とほぼ時を同じくする1817年にその20年あまりの活動に幕を閉じることになった。この団体の実際の影響力という点に関する限り、1785年に設立された商工業者の圧力団体である「全英商工会議所」、或いは、1840年代の「反穀物法同盟」に結集されたブルジョワ急進主義のエネルギーとその政策的インパクトに比べてあまりに小さく、それはまた同時代に無数に設立された他のヴォランタリー・アソシエーション同様、ヴィクトリア期の社会改革者から「ベヴァリッジ報告」へと駆け抜けてゆく戦後福祉国家形成史のいわば前史となる一つのエピソードにすぎないのかもしれない。だが、「協会」が確立した「構造的複合体としての福祉」(Mixedeconomyofwelfare)という視点は、単なるエピソードという領域を越えて現代福祉国家論に連なる問題構成を持っていると私には思われる。本稿では、この団体の活動をナポレオン戦争期固有の国家と社会の関係性のなかに位置づけて考察しているが、そのことはまた、福祉国家成立後も社会の基底に綿々と存在するヴォランタリー・アソシエーションの役割を組み込むことでイギリス近現代史を再解釈しようとする一つの試みに他ならないのである。