序-《齟齬析出》体としての『特性のない男』

《齟齬析出》とは、諸人物あるいは人格化された対象の内部にある齟齬的な二つ以上の構成素を、露呈させるという小説の運動性である。『特性のない男』を齟齬析出体としてみなすことにより、諸人物、あるいは人格化された対象についての複雑で入り組んだ叙述に見通しを与えようと試みる。『特性のない男』のもつ主要なテーマの一つは自己表現の困難性であり、また相互理解の困難性である。

本論では齟齬析出的な、正確さの思考を検証するだけではなく、小説において重要な位置を占める神秘的状態についても齟齬的な関係の中で考察を試みる。正確さの思考と神秘的状態との見通しがたかった関連は、齟齬を軸とすることで見通しやすくなるはずだ。

第1章可能性感覚とエッセイスムス

可能性感覚は語用論的であるが、それによって齟齬的な振幅を含めた思考が行われる。エッセイスムスは厳密な思考によって体系的思考の齟齬を見出す。エッセイスムスは別の状態との関連をもつが、同時にいまだそのつながりは明らかではなく、ウルリヒの内部において齟齬的なままである。

第2章諸人物の齟齬

男性と女性において、析出される多種多様な齟齬を諸人物に即して検証する。

第3章歴史と国家

歴史における観念奔逸的な齟齬と国家におけるさまざまな齟齬を検証する。国家の齟齬は、カカーニエンのナショナリズムの発生にかかわる。

第4章別の状態、あるいは《齟齬回収》の試み

ウルリヒは第1巻において意識的に犯罪を犯すことはない。それに対し、彼は、第2巻においてアガーテと共に遺書の書き換えという犯罪を犯してしまう。

第2巻3部では、無意識と意識、内部と外部、個人と社会が対照される。それはどのような視点においてものを認識するかということであり、別の状態とも関連する。

ウルリヒと愛の試みを行うアガーテにもまた齟齬的性格が見出される。しかし彼女は、社会に収まりきらない広さをもつ。ウルリヒは広さをもつ彼女と、融和の予感をもつのである。

ウルリヒは自分にとってのアガーテの存在を自己愛だと規定する。彼らは、神秘的状態による愛の試みへと向かう。

別の状態と呼ぶ神秘的体験は、みずからの内部と外部との両方で思考するという体験だが、ウルリヒ、そしてアガーテにおける神秘的体験は、本論で《齟齬回収》構造として提示される。それは齟齬的対立の項を巧みに包み込んでいき、神秘的状態の世界を深め、広げるものである。別の状態を齟齬回収構造として規定することにより、齟齬析出構造としてのエッセイスムスとの連関は鮮明にされたといえる。齟齬回収構造は神秘的状態を表現することの困難さとともに成立しているが、それはまた同時に理解することの困難さをも呈する。別の状態は、齟齬回収的な表現の中に身をおき、そこでの言語を体験するということを要求しているといえる。

第5章最後に-齟齬的世界の地図としての『特性のない男』

言語によって、神秘的体験を表現する困難さ、理解する困難さは、個人的な体験や思考を表現したり、理解することの困難さに相当する。言語と神秘的状態とは、きわめて逆説的な、二つの関係を持っている。言語は、神秘的状態の表現と、神秘的状態からの引き返しという、二つの関係を結んでいるのである。

しかし愛の側から見れば、言語は神秘的状態から引き返すように作用するのではなく、実は海のように齟齬に満ちた現実を、十全に使用された言語、すなわち齟齬回収的な言説によって、回収するのである。

『特性のない男』が求める愛と信仰の源泉はまさに齟齬にある。齟齬によってこそ文学テクストの非在の空間は開かれるのである。

構造研究への意志は、『特性のない男』が齟齬的世界の構造に従っていることを、明るみに出そうとしたが、構造化への意志からも、齟齬が析出されるのかもしれない。