本研究は、ハイデガーの言語哲学の核心に、言語の志向性と存在の公共性との連関という事象を発掘することを通じて、私たちの世界内共存在を規定する言語現象の本質を解明することを狙う。志向性と公共性の本質連関が蒙りうる詩的変様を視野に収めながら、この研究は遂行される。

第一章前半は、『存在と時間』の言語論を概観し、ハイデガーが、現存在の世界内共存在の顕在態である「言語」の存立に現存在の世界経験が匿名化される根拠を看取していることを明らかにする。「ひと(dasMan)」という概念は、こうした匿名化された世界経験を導く言語の「語り手」として捉えられる。だが、「良心の呼び声」を論じるハイデガーの思惟は、言語によって匿名的に解釈された世界のただなかで、一切の公共的解釈を拒む《私》の特異性が、言語の「語り手」の変様を迫る現象の解釈を試みるものである。第一章後半は、言語現象を統べるこの拮抗作用(匿名化の圧力vs.特異性の反作用)こそ、「脱形式化された存在論」を支える根本現象であることを明らかにする。

第二章は、志向的対象を「見えるようにする」ロゴスの働きが、本質上、《公共的世界》という宛て先に縛られていることを指摘し、これを、「予・構造」に導かれる了解内容が、「として・構造」をそなえた実践的《知》へと変換され、さらに、《公共的世界》における誰にとっても妥当する言明へと脱文脈化されるプロセスのなかに位置づける。そして、脱文脈化された言明の再文脈化可能性が、《同一の世界》《同一の存在者》の理念によって制約されていることが顧慮されつつ、ハイデガーによる「存在者としての存在者」と「存在者全体」の連関の思惟において問題なのは、《存在者をそもそも存在者として名指す能力一般の獲得》と、存在者出現の場である《公共的世界》の投企に他ならないことが解明される。現存在は、公共的世界の投企によって、存在者を存在者として名指すことが可能になり、あらゆる存在者は、権利上、誰によっても名指されうるものとして公共的に出現する。現存在は、存在者概念をそうした空虚な公共性において了解したとき、既に、「存在者全体を乗り越えて」しまっていたと言えようか。しかし、ハイデガーが「呼び声」論において示唆していた異他的なものの貫入の出来事を、無視するわけにはいかない。ハイデガーの芸術論および詩的言語論との連関において、そうした異他的なものの貫入の出来事の意義を考察することが、本研究第三章の課題とされる。第三章前半は、作品の現実性を、《ありえようはずもないもの》の突発的出現のうちに見、そこに歴史世界の切断面の創始を思考する『芸術作品』論文が、異他的なものの貫入のうちに、言語現象の潜勢力を見て取るものであることを明らかにする。

第三章後半は、この《ありえようはずもないもの》の出現を準備する詩人の創作行為の本質究明を試みる。公共的な空間に身を曝さざるをえない抒情詩的な《私》の姿と、新たな《私たち》の創設への詩的な希求を鑑み、本研究は、《私たち》という場それ自身の生起を神々という絶対的に異他的なものからの語りかけによって基礎づけ、かつは現代をそうした神々の「欠損」によって特徴づける(ヘルダーリン解釈を経た)ハイデガーの思惟のうちに、詩的言語の本質を《私たち》という場それ自身が無化する出来事の痛みから思考しようとする視座を摘出する。本研究は、こうした論点を、ハイデガーのゲオルゲおよびリルケ解釈のうちに確証し、また、本研究独自の視座から、「沈黙」によって区切られた対話的共同体の生成消滅のリズムを考察しつつ叙述する。そして、詩的言語と《私たち》の世界との関わりをめぐる思考の究極の目標が、ツェランの詩文のうちに見出されることになり、そこに、ハイデガー哲学における「言語」の問題をめぐる本研究の終着点が見出されるのである。本研究第二章が見て取った言語の志向性と存在の公共性との内的連関は、《私たち》という言語のトポスが無化する歴史的危地を耐えぬく祈りの言語のなかで、幾度となく生きなおされ、再編・変様されつづけなければならない。それが、本研究が見て取ろうとする生きた言語の歴史性そのものである。