本論文は、『源氏物語』における光源氏の多様な恋の人間関係のあり方、そしてそれと不可分の栄華と憂愁の人生と、道心との特異な関係性や構造の分析を通して、複雑な光源氏像と物語の主題性や方法を探ることを目的とする。それは、物語がいかに仏教思想を自己相対化の視点や方法としつつも、それに収斂されない世界を達成し、人間の真実に迫っていったかという物語精神を明らかにすることでもある。
光源氏の恋と不可分の道心の原点を探る論として、第一章「中の品の女君たちと光源氏ー空蝉・夕顔物語ー」では、光源氏の「癖」を通して彼の「いろごのみ」像を捉えた上で、空蝉・夕顔との恋における喪失感や憂愁が世の無常の認識とも連動して、後の出家願望に密接に繋がってゆくことを論じた。また、第二章「六条御息所の愛執と光源氏の発心」では、六条御息所との関係における恋の苦悩と愛執の問題が、いかに光源氏の道心の一つの始発として位置づけられるのかについて考えた。さらに、第三章「藤壺と光源氏の道心」では、光源氏の恋と憂愁、罪の原点でもある藤壺との関係が、いかに彼の道心のあり方と決定的に関わってくるのか、そして出家の「ほだし」としての紫の上・東宮冷泉との関係を通して、いかなる恋の人物像や社会的な存在としての一面が浮き彫りにされてくるのかを探った。また、第四章「朝顔巻末の「みつの瀬」をめぐってー藤壺追慕と罪の救済ー」では、光源氏の独詠歌に見える「みつの瀬」の表現性を足掛かりに、亡き藤壺への愛と罪、そして救済の問題を考えた。藤壺を失った喪失感とともに絶望的な救済切望を象るその歌は、光源氏・藤壺物語のひとまずの終焉を象徴的に語るものであった。
栄華と道心の相関関係についての論として、第五章「光源氏の栄華と道心」では、光源氏の道心が、藤壺との罪を内在した栄華の特異性と必然的に関わっていること、現世に執着を残さない出家が志向されつつも、冷泉帝・明石の姫君の独自な位相と関わって、かえって現世の栄華に積極的に関わらざるを得なかったあり方などを論じた。また、第六章「明石の入道物語ーその出家者像と栄華志向をめぐってー」では、栄華志向と道心とが不可分に結び付いている明石の入道のあり方を通して、物語における道心と栄華の特異な関わり方の一端を考えた。
道心の問題が様々な人間関係を通して照らし出される第二部の物語に関する論として、第七章「朱雀院の出家と「心の闇」ー光源氏の道心と関連してー」では、出家者朱雀院の女三の宮への「心の闇」が、六条院の人間関係を浸蝕する世俗的な論理として作用するが、それゆえにかえって光源氏と紫の上の類い稀な愛のあり方が浮き彫りにされること、さらに朱雀院を通して照射される光源氏の道心の問題について論じた。また、第八章「紫の上の道心」では、紫の上の道心の必然性と特異性を「世」や「身」の表現性、栄華と道心の両次元での疎外、源氏への憐憫・愛執の問題、さらに死に対する認識や絶望的な来世観を表す表現などの分析を通して考えた。紫の上の非出家、そして浄土教の絶望的な来世観に収斂されない次元で彼女の救済が印象づけられているところに、物語の論理や主題性のあり処が示されている。さらに、第九章「秋好の出家願望と光源氏ー目連救母説話と関連してー」では、秋好の亡母六条御息所の鎮魂のための出家願望と関わって、愛執から逃れ難い人間の宿命に改めて直面しながら現世厭離と現世執着との間に揺れる源氏のあり方を、目連救母説話の引用の意味分析を通して論じた。最後に、第十章「光源氏晩年の道心ー物語の論理と主題性ー」では、出家の課題が正面から問われる最晩年の光源氏物語において、その恋と憂愁の全人生がいかに照らし出され、またいかに仏教思想と切り結びながら物語の論理や主題性が浮かび上がってくるのかについて考えた。そこには現世離脱の課題と葛藤せざるを得ない光源氏の恋の人間像や、紫の上との愛の関係、さらに憂苦に耐えながら安易な出家を選ばなかった一面が浮き彫りにされていた。そして、「世の譏り」という他者意識が「まどひ」を浄化しての出家志向と不可分のものであったこと、また生涯の憂苦悲哀が現世離脱を勧める「仏の方便」であったという観念や、人間の愛や感動(「あはれ」)を「執」として否定する認識のあり方などの分析を通して、物語は光源氏の最終的な姿として、愛執や迷妄から逃れられない絶望を照らし出そうとしたのではなく、むしろ救いに近いものを印象づけていることを論じた。物語が語ろうとしたのは、宗教的な課題を負わされた人間の敗北や愛執への悲観的な諦念などではなく、むしろ人間肯定ともいうべき主題性や思想が打ち出されていたのであり、その意味で『源氏物語』は、時代の浄土教そのものを相対化してさえいると考えられる。
光源氏の恋と不可分の道心の原点を探る論として、第一章「中の品の女君たちと光源氏ー空蝉・夕顔物語ー」では、光源氏の「癖」を通して彼の「いろごのみ」像を捉えた上で、空蝉・夕顔との恋における喪失感や憂愁が世の無常の認識とも連動して、後の出家願望に密接に繋がってゆくことを論じた。また、第二章「六条御息所の愛執と光源氏の発心」では、六条御息所との関係における恋の苦悩と愛執の問題が、いかに光源氏の道心の一つの始発として位置づけられるのかについて考えた。さらに、第三章「藤壺と光源氏の道心」では、光源氏の恋と憂愁、罪の原点でもある藤壺との関係が、いかに彼の道心のあり方と決定的に関わってくるのか、そして出家の「ほだし」としての紫の上・東宮冷泉との関係を通して、いかなる恋の人物像や社会的な存在としての一面が浮き彫りにされてくるのかを探った。また、第四章「朝顔巻末の「みつの瀬」をめぐってー藤壺追慕と罪の救済ー」では、光源氏の独詠歌に見える「みつの瀬」の表現性を足掛かりに、亡き藤壺への愛と罪、そして救済の問題を考えた。藤壺を失った喪失感とともに絶望的な救済切望を象るその歌は、光源氏・藤壺物語のひとまずの終焉を象徴的に語るものであった。
栄華と道心の相関関係についての論として、第五章「光源氏の栄華と道心」では、光源氏の道心が、藤壺との罪を内在した栄華の特異性と必然的に関わっていること、現世に執着を残さない出家が志向されつつも、冷泉帝・明石の姫君の独自な位相と関わって、かえって現世の栄華に積極的に関わらざるを得なかったあり方などを論じた。また、第六章「明石の入道物語ーその出家者像と栄華志向をめぐってー」では、栄華志向と道心とが不可分に結び付いている明石の入道のあり方を通して、物語における道心と栄華の特異な関わり方の一端を考えた。
道心の問題が様々な人間関係を通して照らし出される第二部の物語に関する論として、第七章「朱雀院の出家と「心の闇」ー光源氏の道心と関連してー」では、出家者朱雀院の女三の宮への「心の闇」が、六条院の人間関係を浸蝕する世俗的な論理として作用するが、それゆえにかえって光源氏と紫の上の類い稀な愛のあり方が浮き彫りにされること、さらに朱雀院を通して照射される光源氏の道心の問題について論じた。また、第八章「紫の上の道心」では、紫の上の道心の必然性と特異性を「世」や「身」の表現性、栄華と道心の両次元での疎外、源氏への憐憫・愛執の問題、さらに死に対する認識や絶望的な来世観を表す表現などの分析を通して考えた。紫の上の非出家、そして浄土教の絶望的な来世観に収斂されない次元で彼女の救済が印象づけられているところに、物語の論理や主題性のあり処が示されている。さらに、第九章「秋好の出家願望と光源氏ー目連救母説話と関連してー」では、秋好の亡母六条御息所の鎮魂のための出家願望と関わって、愛執から逃れ難い人間の宿命に改めて直面しながら現世厭離と現世執着との間に揺れる源氏のあり方を、目連救母説話の引用の意味分析を通して論じた。最後に、第十章「光源氏晩年の道心ー物語の論理と主題性ー」では、出家の課題が正面から問われる最晩年の光源氏物語において、その恋と憂愁の全人生がいかに照らし出され、またいかに仏教思想と切り結びながら物語の論理や主題性が浮かび上がってくるのかについて考えた。そこには現世離脱の課題と葛藤せざるを得ない光源氏の恋の人間像や、紫の上との愛の関係、さらに憂苦に耐えながら安易な出家を選ばなかった一面が浮き彫りにされていた。そして、「世の譏り」という他者意識が「まどひ」を浄化しての出家志向と不可分のものであったこと、また生涯の憂苦悲哀が現世離脱を勧める「仏の方便」であったという観念や、人間の愛や感動(「あはれ」)を「執」として否定する認識のあり方などの分析を通して、物語は光源氏の最終的な姿として、愛執や迷妄から逃れられない絶望を照らし出そうとしたのではなく、むしろ救いに近いものを印象づけていることを論じた。物語が語ろうとしたのは、宗教的な課題を負わされた人間の敗北や愛執への悲観的な諦念などではなく、むしろ人間肯定ともいうべき主題性や思想が打ち出されていたのであり、その意味で『源氏物語』は、時代の浄土教そのものを相対化してさえいると考えられる。