本稿では、主に8~9世紀を対象として、日本古代社会における神社の制度と存在形態についての分析を行なった。

第一編では、律令神社制度について官社制度を中心に考察を加えた。第一章では、式内社の内の15~20パーセントは『弘仁式』成立後の官社であり、しかもその大部分は弘仁10年代から貞観初年にかけての約40年間に増加したと考えられることを論証した。この考察結果により、延喜神名式段階の官社がそのまま『弘仁式』段階、さらには8世紀段階に存在していたと見做して論じていたそれまでの官社制度・律令神社制度研究の問題性が明らかとなった。そこで第二章において、主に8世紀後半から9世紀にかけての律令地方神社行政の変遷過程について考察し、8世紀の官社制度が国家による天神地祇奉祭という理念に基づいたものであったこと、それが律令制地方支配の進展と共に官社数の拡大が進められ、それに応じて官幣国幣社制の導入や名神制度の創設が図られたことを明らかにした。官幣国幣社制の導入は、畿内を中心とした一部の神社のみを直接把握し、他は国司に委任して間接支配の形式をとることにより、神社支配全体の強化を意図したものであった。その後、名神制度も国司の部内神社支配強化に利用されるようになり、さらに神階授与が活発化する。嘉祥4年の諸神同時叙位を経て、貞観年間には官社制度中心から神階社制中心の地方神社行政へと移行した。神階社制は在地首長層・富豪層にも歓迎され、9世紀から10世紀にかけて盛行し、これによって国司の部内神社支配は強化されたが、一方、中央の地方神社への関与は減少していった。古代の地方神社行政は律令国家の歩みと密接に関わったものでもあったのである。付論では班幣祭祀創始の意義を相嘗祭祭儀との比較によって明らかにした。律令制導入期に天神地祇惣祭を目指した朝廷は、まずそれまでの個別祭祀を統合した相嘗祭を創始し、さらにそれを簡略化し実施しやすくしたものとして班幣祭祀を創始したのであった。

第二編では、地方神社と中央神社行政との関連を神戸を取り上げることによって論じた。第一章では、神戸は第一には租税を神に奉献することによってその設定社の祭祀を精神的に国家祭祀の一部として取り込むことを目的として設置されたものであったが、その国家的性格の故に神祇官祭祀の祭料調達の役割も担っていたことを指摘した。神戸がそのようなものとして設定された背景には律令神祇祭祀の整備過程との関連が想定される。すなわち律令制の最初期段階において、まず神社祭祀及び中央神祇祭祀の整備を図るために神戸という制度が創設されたが、やがて律令神祇祭祀の拡大による祭料の増大と律令的収取制度の整備が進むにつれて、中央の神祇祭祀は基本的には調などの律令的収取制度に依存してまかなう方式へと転換し、神祇行政に占める神戸の役割は低下していったのである。第二章では出雲国の神戸を取り上げて、在地社会に存在する神戸の実態及び律令神祇行政との関連について考察を加え、神戸の諸側面を明らかにした。

第三編では、在地社会における神社信仰の問題を論じた。第一章においては、まず儀制令集解19春時祭田条を検討対象として、「春時祭田」が「村」を主体として営まれた在地農耕祭祀であることを明らかにした。そしてさらにそれ以外の在地祭祀についても考察を加えて新たな在地社会像を提示した。春時祭田は、律令国家のめざす神祇祭祀の枠外に存在し、律令国家や在地首長が介入することを考えない、共同体祭祀であった。この春時祭田が、平安末期から鎌倉時代にかけての村落共同体的行事として確認される「二月田の神祭」につながっていったのであろう。第二章では、8世紀の越中国東大寺領荘園を主な検討対象として、在地社会における神社と在地首長との関係を論じた。同荘園に設置された神田・神社には大きく分けて二つの型がある。一つは荘園の一円化にともなって荘園図や文書に記載されることになった神田・神社であり、もう一つの型は官社クラスの有力神社に対して充てられた神田である。後者の設定にあたっては在地首長かつ越中国司でもあった利波臣志留志の関与が想定され、在地首長が首長としての権威を示しかつ義務を果たすために部内の有力神社に神田を奉充したものと考えられる。このような形式の神田奉充は古代在地社会において普遍的に行なわれていた可能性が想定される。神祇祭祀への王権や首長の関与のあり方には、自らが祭祀を執り行なう場合と、祭祀そのものには関与せず奉幣や祭使派遣という形によって間接的に祭祀に関与する場合との、二類型が存在したが、神社祭祀への関与は後者の形が一般的であった。