ジョン・L・オースティンが言語行為論で用いている「力(force)」という概念は、ドイツ語訳では「役割(Rolle)」という語で翻訳されている。一見すると、これは全く無関係な語で置き換えられたように思えるが、その翻訳の背後には、近代西欧文化が「演劇=劇場シアター」という制度によって行なった一つの文化史的な置き換えが見て取れる。十六世紀から十八世紀にかけて西欧文化では呪術的な営みが次第にその信憑性を失っていったが、それと平行する形で「劇場シアター」と呼ばれる制度が西欧文化の内部で確立し、脱呪術化がほぼ完成する十八世紀の末から十九世紀の中頃にかけて多くの都市で「劇場シアター」と呼ばれる建造物が建てられるようになる。一見すると無関係に思われるかもしれないこの二つの展開は、実は相互に密接に関わるものだということを第一章で示す。中世の宗教劇のなどとは異なり、近代に成立した「演劇=劇場シアター」は、宗教儀式と明確に一線を画したうえで、そこで行なわれるあらゆる発話行為の効力フォースを無効にする空間であり、呪術はその空間に追放されることでその力を失う。劇場は西欧文化が「脱呪術化」と呼ばれる過程を推し進める上で不可欠な装置だったのであり、それは言語やその他の記号が持つ呪術的な機能を空虚なものとし、それを描写=記述的機能に限定することに寄与してきたのである。
そうした考察を前提に、第二章では、近代西欧文化に生きる人々が表象の呪術的な「力(force)」に直面した際に、それを暗黙のうちに演劇的な「笑劇(farce)」と見なすことで、呪術的なものを演劇的なものに置き換えてしまう様子を、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』などを例に考察した上で、マルクス以後、ニーチェのような思想家の登場とともに「演劇=劇場シアター」という制度に基づく脱呪術化の過程が終焉を迎え、いわゆる「世界の再呪術化」が始まったことを確認する。民族誌学者ミシェル・レリスが提起した「生きられる演劇」はこうした変化を最も明確な形で提示する概念である。フランス語において「演劇」とは「演ぜられる」べきものであり、「生きられる」べきものは「人生」である。ところがレリスは「生きられる演劇」という撞着語法によって「人生」と「演劇」との間の中間領域を指し示したのである。それは「行為遂行」であると同時に「舞台上演」をも意味する“performance”という表現によってオースティンが指し示すものそのものであり、それはまさに「力(force)」と「役割(Rolle)」との間に成立するものなのである。
第三章では、オースティンによる言語行為の発見と同一の動きが、演劇史においても既に二十世紀の前半において進行していたことを、ブレヒトの叙事的演劇の理論とアルトーの残酷演劇の試みなどを例に考察する。オースティンの言語行為論が、言語表現が記述しているものから、言語表現を用いることで行なわれる行為への哲学者の関心の移動を意味するものであり、また、十九世紀末以来、「劇文学」としての戯曲から「舞台上演」としての演劇へと演劇人たちの関心が移動したのだとすれば、二十世紀の哲学の歴史と演劇の歴史との間には、ある種の平行関係が見て取れる。この平行関係は哲学者と演劇人との間の直接的な影響関係の結果ではなく、両者がともに認識論的なレベルにおいて「言語」ということに関して暗黙の内に思考の転換を共有した結果生じたものであり、ブレヒトの叙事的演劇とアルトーの残酷演劇とはそうした転換を最も明確な形で我々に示すものなのである。
以上の考察をもとに第四章ではヴァイス作/ブルック演出の『マラー/サド』劇を考察する。『マラー/サド』劇は、そもそも「劇文学」として自立することを放棄した戯曲であり、ブルックは『マラー/サド』劇の映画収録に際して劇場の舞台と客席との間に鉄格子を設けることによって西欧近代の「演劇=劇場シアター」が一種の監禁装置であることを明らかにする。『マラー/サド』劇上演を前後して、「演劇」という概念は徐々に「パフォーマンス」という概念にとって代わられていったが、オースティンが提起した「行為遂行的発話パフォーマティヴ」概念は、まさにそうした関連において捉えるべきものなのである。
そうした考察を前提に、第二章では、近代西欧文化に生きる人々が表象の呪術的な「力(force)」に直面した際に、それを暗黙のうちに演劇的な「笑劇(farce)」と見なすことで、呪術的なものを演劇的なものに置き換えてしまう様子を、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』などを例に考察した上で、マルクス以後、ニーチェのような思想家の登場とともに「演劇=劇場シアター」という制度に基づく脱呪術化の過程が終焉を迎え、いわゆる「世界の再呪術化」が始まったことを確認する。民族誌学者ミシェル・レリスが提起した「生きられる演劇」はこうした変化を最も明確な形で提示する概念である。フランス語において「演劇」とは「演ぜられる」べきものであり、「生きられる」べきものは「人生」である。ところがレリスは「生きられる演劇」という撞着語法によって「人生」と「演劇」との間の中間領域を指し示したのである。それは「行為遂行」であると同時に「舞台上演」をも意味する“performance”という表現によってオースティンが指し示すものそのものであり、それはまさに「力(force)」と「役割(Rolle)」との間に成立するものなのである。
第三章では、オースティンによる言語行為の発見と同一の動きが、演劇史においても既に二十世紀の前半において進行していたことを、ブレヒトの叙事的演劇の理論とアルトーの残酷演劇の試みなどを例に考察する。オースティンの言語行為論が、言語表現が記述しているものから、言語表現を用いることで行なわれる行為への哲学者の関心の移動を意味するものであり、また、十九世紀末以来、「劇文学」としての戯曲から「舞台上演」としての演劇へと演劇人たちの関心が移動したのだとすれば、二十世紀の哲学の歴史と演劇の歴史との間には、ある種の平行関係が見て取れる。この平行関係は哲学者と演劇人との間の直接的な影響関係の結果ではなく、両者がともに認識論的なレベルにおいて「言語」ということに関して暗黙の内に思考の転換を共有した結果生じたものであり、ブレヒトの叙事的演劇とアルトーの残酷演劇とはそうした転換を最も明確な形で我々に示すものなのである。
以上の考察をもとに第四章ではヴァイス作/ブルック演出の『マラー/サド』劇を考察する。『マラー/サド』劇は、そもそも「劇文学」として自立することを放棄した戯曲であり、ブルックは『マラー/サド』劇の映画収録に際して劇場の舞台と客席との間に鉄格子を設けることによって西欧近代の「演劇=劇場シアター」が一種の監禁装置であることを明らかにする。『マラー/サド』劇上演を前後して、「演劇」という概念は徐々に「パフォーマンス」という概念にとって代わられていったが、オースティンが提起した「行為遂行的発話パフォーマティヴ」概念は、まさにそうした関連において捉えるべきものなのである。