本研究は、中国や朝鮮、日本現存し、通常、誕生仏と称される仏像を対象とする。以下は、便宜上、誕生仏という呼称を用いることにする。

誕生仏は、形式的には、2種類--両手垂下と片手挙げ--が存在し、それぞれ、誕生後の釈尊の身に起こった二つの出来事--7歩と竜の灌水--に因んだ造形と言われる。しかし、2形式とも、誕生そのものを表したものではない。
誕生仏の2形式の内、両手垂下形式像は、早くも、作られなくなり、その下限は、5世紀を下らないようである。片手挙げ形式像は、5世紀後半以後に、中国、そして、多くは、朝鮮、下っては、日本で作られたようである。
両手垂下形式像がなぜ消え、それが、もともと、どのような性質のものだったかは、本研究のスタート点である。その為、両手垂下形式像が、5世紀半ば以前の中国において、如何なる需要の元で作られ、また、この問題と関連して、釈迦の誕生に関連する造像がなぜ必要だったかを知る必要があると思われる。
両手垂下形式像に関する研究は、本研究の主な部分で、主論文として提出する。

第1編:ガンダーラの仏伝作品と漢訳仏伝経典の関連記述に即して、両手垂下形式像の図像的意味、造営の概要を見る。
第1章:ガンダーラの仏伝作品においては、両手垂下形式像は、誕生後の「7歩」、「灌水」、「占相」に共通して見られる太子の姿で、「相好」を示す造形であることを指摘する。
第2章:両手垂下形式像は、立体・平面共に、5世紀までの中国における流行図像になっていたこと、それには九竜灌水思想の関与があることを指摘する。

第2編:太安元年(455)銘石像の研究を通して、5世紀半ば頃の中国造像界の重要な課題が『観仏三昧海経』(『観経』と略す)に基づく造像にあったこと、そして、太安元年銘石像の仏伝レリーフにある両手垂下形式像が『観経』に基づく相好観の対象としての性格を有することを知る。
第1章:北魏復仏後の造像界の幕開けを、『観経』に基づく造像活動と関連する赤金釈迦立像の建立と仏影像の将来において見る。坐像のモデルとされる仏影像の流行の中で、釈迦坐像を本尊にもつ太安スタイル仏像群の背景を求める。
第2章:「胸の万字を示す世尊」という『観経』・色身三十二相観における重要な枠組みを提示し造形におけるその可能な形式に、「披僧祇支」という状況に基づいて、胸の一部乃至肩まで裸ける像容を有すると想定する。
仏影像は、竜王窟内の禅定の如来像であると想定し、その流行の過程において、「万字を示す釈尊」の関与の元で、肩を裸けた形式のものもあった可能性を指摘する。『観経』・仏影像観と釈迦本生譚との関連を指摘する。
炳寧寺169窟西壁16号3仏立像、同窟の北壁9号3仏立像において、「示万字の世尊」の立像形式を、北壁3号三尊像に仏影像をそれぞれ見る。西壁16号仏立像の肩にかかる衣の表現に注目して、「万字を示す世尊」の着衣の一形式を見る。
また、禅窟として名高い麦積山初期の78、80諸窟に、「万字を示す世尊」の坐像形式、「万字を示す世尊」紛いの仏影像をそれぞれ見る。特に、148窟においては、仏影像形式の像と「万字を示す世尊」とからなる二仏並坐小龕が四つあることに留意し、『観経』に説かれた4衆の思想との関連を、また、弥勒菩薩像が作られたことに注目し、仏影像観に説かれた弥勒との巡り会いの思想との関連を指摘する。
第3章:太安元年銘石像の図像は、炳寧寺169窟麦積山初期石窟のそれに通じるところが多く、像は、正・背面共に、『観経』に語られた内容に基づく意図的な仏像である。

第3編:クリーブランド美術館所蔵の単独の両手垂下形式像の股間の着衣から研究を深め、この形式の仏像は、もともと、『観経』においては、仏法至上の思想を象徴するものとして位置付けられた「馬王蔵相」の立体表現だったことを知る。
このような性質の両手垂下形式像は、誕生と関連するところで発生したものの、出生を越えた意味合いをもつ。「馬王蔵相」の禅観法と運命を共にし、ややもすると、エロティック的にも見られかねない宿命を背負い、中国の土壌から消えるのは時間の問題である。

片手挙げ形式像が、如何なる事情で、誕生そのものを意味する誕生仏になったかへのアプローチとして、弥勒信仰と老師信仰の関与について検討を加えた。
前者に関しては、大乗信仰における釈迦崇拝の普遍化が、誕生を含む釈迦伝の図像が弥勒信仰に転用される土台となり、太安元年銘石像と同じ土壌で発生した皇興五年(471)銘交脚如来像に端緒を見いだすことができると思われる。
後者に関しては、釈迦は即ち老師なりという仏道同源論がそもそもの起点で、6世紀後半に仏道優劣論に発展した仏道習合の中で、「唯我独尊」と主張する老師の誕生を意識した作品が作られたように思われる。
このような内容をもつ2編を添付して、副論文をして提出する。