本論は『五代帝王物語』『平家物語』『太平記』及び『太平記評判秘伝埋尽鈔』を対象に、それらの形成基盤及び歴史叙述のあり方について考察したものである。

第一章は鎌倉後期成立の歴史物語『五代帝王物語』の作者を考察したのもである。この作品には怪異譚・飢餓・火事等、王権の不安定性を喚起するような記述が圧倒的に多い。私見ではこの作品の作者として、後鳥羽院御霊信仰の生成・管理圏に極めて近い位置にいた人物・春日仲基が最もふさわしいと思われる。後白河院時代以降、仲基に至る宇多源氏の系譜は、芸能者・宗教者の統括を通じて、王権的秩序の側から見た「異界」との媒介者の役割を果たしており、王権を補完する一方、常にその正当性を揺るがすような複眼的な認識の契機をも得ていた。そのような認識が、読者を王権をめぐるダブル・バインドに追い込むような記述を生んだものと思われる。ただ、その記述は結果的に王権/御霊という閉じた世界の中での境界侵犯にとどまっており、その意味でこれを、来たるべき動乱前夜の作品と位置づけることができよう。

第二章は『平家物語』重衡譚を中心に、中世律宗と『平家』の関係を考察したものである。『平家』諸本には南都焼き討ち当夜、重衡が法華寺(般若寺)の鳥居の前に立って号令したとの記述がある。しかし、これは史実ではなく、「仏教」重衡でさえキヨめられる場所として自身を宣伝しようとした法華寺等の唱導によるものであろう。鎌倉中期南都の律宗唱導圏は、顕密仏教体制再編の流れの中で重源以来の諸伝承を継承した。それらの中、横笛譚等には、世俗的な価値や権力構造から解放される場所としての律院の自己主張が見られる。しかし、重衡譚のように「仏法」の自明性を疑う契機をあらかじめ抑圧する機能をもつものもあり、我々は両者の間で揺れ動く律僧の姿を読み取ることができよう。

第三章は『平家』後白河院伝法灌頂説話の形成基盤及び、律宗と『平家』の関わりの別の側面を論じたものである。私見ではこの説話は四天王寺別当をめぐる山門と三井寺の抗争を解決し、自身の別当就任を円滑ならしめるために、叡尊及びその周辺で作成されたものである。この説話には驕慢を戒め、戒律を重視する律宗の思想がかなり直截に表現されている。しかし、その論理構成はあくまでも王法仏法相依論の枠組みに基づいており、その秩序自体を疑う者には必然的に「驕慢」のレッテルを張り付けることになることを見落とすべきではなかろう。

第四章は『太平記』の中の湊川合戦から吉野焼亡に至る時期の楠党に関する記述の虚構性を明らかにしようとしたものである。この時期の楠党に関する記述は、主として「忠臣」としての位相を表わしているが、南朝の衰退、楠党の敗北をゴールとする単線的な物語りとして記されており、実際にあった畿内宮方の多様な動きは排除されている。従って、これら「忠臣」としての位相はリアルタイムで作られたのではなく、南朝の敗北が決定的になった段階で、編纂者の政治的理想像を投影する形で作られたと考えることができる。また、このような「忠臣」としての位相が、閉塞的な時代の日本人に人生に根拠を与えるものとして影響力を持ったことは確かであるが、近世においては天皇と結びつかない楠党伝承も多く、両者(天皇と楠党伝承)の関係は慎重に考える必要があろう。

第五章は『太平記』における四天王寺に関する記述の中から、評価すべき可能性を探ったものである。『太平記』における四天王寺の位相は1.仏敵退治の寺院、2.仏敵の根拠地、3.不透明な他者との出会いの場、4.アジールの四つに分類することができる。このうち1と2は中世律宗の学問的環境で生み出された太子伝世界と重なり、両者あいまって王権の危機とその克服の物語を形成している。しかし、『太平記』には自身の解釈原理では理解できない出来事の起こる場所としての3の位相も書き込まれており、そこから性急な解釈に頼って自身の立場の安定を図るのではなく、驚きを驚きのままに表現しようとする記述者の倫理を読み取ることができよう。

第六章は『埋尽鈔』「伝」の世界の形成基盤を探る試みである。「伝」で楠党の根拠地とされる地点には、一六世紀の石山一向一揆や反信長戦争の拠点であったところが多く、また正行の遺児とされる池田教正の名は、河内に実在したキリシタン大名の名からとられている。一向一揆の敗北を経て、転向キリシタンをも含みこんだ真宗門徒が、自身を楠党になぞらえつつ、楠党伝承を増幅させていった過程が考えられる。『埋尽鈔』はそれらの伝承を脚色し、全く別の統治理念によって管理しようとした試みだったのではないか。