ヒジュラ暦2世紀/西暦8世紀にアッバース家の教宣活動の結果として成立したアッバース朝は、北アフリカから中央アジアにいたる広大な諸地域を支配し、社会システムとしてのイスラームをそれらの地域に浸透させた。しかし、4/10世紀半ばのブワイフ朝大アミールによる軍事・行政権の簒奪によって事実上、その帝国としての実態を失いモンゴル侵入とともに終焉を迎えた。このようなアッバース朝のイスラーム世界における位置を考えた場合、同帝国の解体過程を明らかにし、その過程における政治および社会の変動を検討することは、社会システムとしてイスラームを受容している諸地域・諸集団・社会の歴史を理解する際に大きな意義を持つものである。

その検討に際して、本稿はイラク社会を中心に、第1部・奴隷軍人、第2部・土地税制、第3部・民衆運動という3つのテーマを取り上げ、それぞれ職業軍人集団、私領地、民衆と国家の関係を念頭に置きつつ、解体期におけるそれらの在り方を考察する。

まず第1部は、アッバース朝解体期以降の軍事力において中核的な役割を担い、その政治権力と密接に関わる奴隷軍団の成立について取り扱う。初期イスラム世界において進行しつつあった家内集団的な私的軍事集団の形成は、大土地所有の進行、中央軍の拡大といった動きに従ってその意義を増した。アッバース朝カリフ・ムータシムの新軍団創設も、このような歴史的潮流の中に位置付けられる。さらに「奴隷を軍人として用いる慣習」が、この時代に大きな広がりを持って展開したことも、有力者の私的な軍事力や家産管理集団の形成との関わりのうちに捉えられるべきである。

次に第2部は国家体制と大きな関わりをもつ土地税制について、特にこの時期に進行した大土地所有体制との関連で取り扱う。大土地所有下の私領地においては「私領主の取り分」と「国庫の取り分」が別個のものとして重層的に存在する。ダイアの農民は「国庫の取り分」意外に「私領主の取り分」を支払うのであり、また「国庫の権利分」は滞納されることはあっても基本的に消失することはなく、これが国家が私領地に対して一定の影響力を及ぼし得る根拠となったと考えられる。

このような「国庫の取り分」と「私領主の取り分」に目を向けた場合、この取り分の問題は、法学者の扱う法学理論と、書記や官僚の扱う現実の徴税業務の両面から検討される必要性がある。まず法学的には、国家的土地所有体制の対象となったサワード地方においては、私領地における私有権であると同時に、国家に対する用益権でもあるラカバという概念が成立した。このラカバを根拠として徴収される小作料が「ラカバの権利」すなわち「私領主の権利」であり、用益権に対する地代としてのハラージュが「国庫の権利」の法学的実態である。一方、徴税業務の実態については、国庫の権利が免除される場合においても、実際には後に国庫の権利は追徴されており、あくまで凍結されているにすぎない。これらの取り分は、サワード地方においては産額比率分配性による穀物の分配によって徴収されたが、書記的な概念の導入によって、本来ザガーであるウシュルもまたハラージュの分配率の問題として、均一に扱われるようになった。このため、私領においても、その所有権とは無関係に、取り分の比率は、その時期の政権を構想する政策集団と私領主との関わり、特に政治的影響力の大小や正当性の主張の中で決定されたのである。

第3部は主にブワイフ朝期の民衆運動を眺めることによって、アッバース朝の解体過程と社会変動の相互関係を捉えようとするものであり、まずそれを民衆間の暴力集団と政治権力との関係のうちに考察する。10世紀バグダードの権力集団はアイヤールなどの民衆の暴力集団を自らの公的な暴力装置の内に組み込むことに成功し、それを非常時の戦力や私的闘争の道具、財産押収の際の武力として利用した。一方暴力集団の側には、権力を背景として活動を正当化し、軍籍を得て生計と自己表現の場を獲得しようとする傾向がみとめられる。このような状況はアッバース朝の解体という、政治・社会状況の変質によってもたらされた結果の一つであった。

次にブワイフ朝大アミールがシーア派儀礼を公的に試行して以来激化した、バグダードのスンナ派住民とシーア派住民の宗派闘争に目を向けると、ブワイフ朝バグダードではスンナ派住民は、シーア派イマーム・フサイン殉教の祝祭に対応する独自の祝祭を生み出した。これが、7世紀、第二次内乱時のバスラ総督としてシーア派の乱を鎮圧したムスアブ・ブン・アッズバイルの墓の参詣である。第二次内乱という歴史的事実のなかを生きた軍人ムスアブの死の伝承は、宗派騒乱という社会状況下で、フサインの死との様々な対応性を見いだされ、墓参の対象としてのシンボル性を付与されていった。

以上のように、アッバース朝の解体は、社会集団としての軍事力形成、国家体制、土地所有体制の変動といったレベルから、さらには歴史認識とシンボリズムのレベルにおいても、社会集団の行動を規定し、影響を及ぼしているのであり、それらすべての総体として、当時のイラク社会が存在していたのである。