文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。
林 淳子 准教授(国語研究室)
日本語の文法を研究しています。研究のどのプロセスもそれぞれのおもしろさがありますが、最も興奮するのは、一つの文法形式がさまざまな用途で用いられる道筋を考える中で、言葉という道具を手にした人間の創造性が垣間見える時です。
たとえば、現代日本語の終助詞「カ」というのは「明日大学へ来ますか?」のような疑問文を作る助詞ですが、徹夜をした明け方に窓の外が既に明るくなっているのを見て「もう朝か」とつぶやく時にも使いますし、「そんなに俺のことが嫌いか!」と不満を爆発させる場面でも使います。疑問・気づき・不満に共通するのは何かと考えてみると、いずれも、話し手にはそうだと述べることを回避する事情があるということが分かります。疑問の場合は本当にそうかどうか分からないから、気づきの場合は気づいたばかりで内容が未消化だから、不満の場合は心理的に認めたくないから、と事情の内実は異なりますが、とにかくそうだと断定することを避けたい心情は共通するわけです。私たちは文末を「カ」で終える文を発話する時、いちいちそんなことを考えて発話しているわけではないのに、おもしろいですよね。
これまでに書いた論文の半分は現代共通語を対象とするもので、もう半分は過去の日本語を対象とするものですが、文法史研究でもやはり人間の創造性に触れた気がする瞬間があります。「実は今日、私の誕生日なんです」「そのお菓子、どこで買ったんですか?」のような文に見られる「ンデス」という文末表現は、江戸時代頃から用いられるようになったのですが、出現した当初は今よりもっと限られた使用法しかなく、たとえば疑問文に「ン(ノ)」が現れるのは「私が一生懸命話しているというのに、もしやあなたは寝ているんですか?」のような目の前の相手の言動に不満を持つ場面だけでした。そこから徐々に使用場面を拡大し、現代日本語では疑問文の約半数に「ン(ノ)」が現れるのですが、場面によって使うと不自然だったり、逆に使わないと不自然だったりします。疑問文における「ン(ノ)」の有無という区別は江戸時代以前にはなかったのに、一旦その区別が疑問文の下位分類として機能し始めると、人はその区別に持たせる意味をどんどん鮮明にしていくんですね。
だから結局、言語の研究は言語を使う人間の研究で、言語研究を通して人間の姿に触れることができた気がするのが私にとって言語研究の一番の魅力です。そういう意味では、言葉の中でも、規範性の強い書き言葉より、使い手の目論見や物腰がより形式に反映されやすい話し言葉に関心の中心があります。学生時代に指導教員の先生から「あなたはよくしゃべるから話し言葉を研究した方がいい」と言われたのを素直に受け取って、疑問文やノダ文をはじめとする話し言葉の研究を始めたのですが、話し言葉の文法には不満や驚きを表明したり、相手を説得しようと言葉を尽くしたりする話し手のリアルな姿が投影されていることが多く、その一端に触れた時はやはりとてもわくわくするので、あの時の先生の見立ては間違っていなかったんだなと折に触れて思います。
言語を操る人間の営みへの関心ということで言えば、翻訳にもずっと関心があります。私の能力の限界で、研究対象が日本語と英語に限られますが。日本語で書かれた小説とその英語翻訳版を対照すると、同じことを表現するにしても言語によって表現の仕方が大きく違っていて、それは言語がそれを話す人間のなし得る表現の幅を縛っているとも言えるのですが、言語と人間の自由ならざる関係が感じられておもしろいなあと思います。一方で、最近、平安時代に書かれた源氏物語とその英語翻訳版を比べてみたところ、大胆な意訳のように見えるところでも実は文法構造が驚くほど共通している箇所があり、そこには言語の違いを超える人間の普遍性のようなものが透けて見えます。
数ある言語の中で日本語を研究対象に選んだ決め手は、内省が利くということでした。こういう場面ではこういう形式の文を好んで発話する、少し形式が変わると相手に伝わる表現の意味合いも変わるというようなことを自信を持って考えたかったのです。とはいえ、これまでの研究を振り返ってみると、自信を持って内省を発揮できるはずの現代語を、過去の日本語や他言語と比べて相対化しないと理解した気がしないようです。
内省っておもしろいもので、授業で学生さんと議論をしていると、内省には個人差があることに気づかされます。また、私の場合は自分の母語を「内省が利く言語」として研究対象に選んだわけですが、母語でなくても十分に堪能であれば内省が利くということは強調しておきたいです。これまで机を並べて勉強してきた仲間や、授業で接する学生さんの中には日本語の非母語話者も多いですが、日本語が堪能であれば内省が利きますし、母語話者にはない視点から鋭い指摘ができるという強みもあると感じています。日本の大学においては、母語か否かにかかわらず、日常的に日本語を用いる人が集まっていて、日本語学を専攻している学生でなくても内省を利かせて議論に参加する余地があります。そういう意味で、日本語の研究は相当に身近な学問で、だからこそそこに人間の姿を垣間見る喜びも大きい気がしています。
たとえば、現代日本語の終助詞「カ」というのは「明日大学へ来ますか?」のような疑問文を作る助詞ですが、徹夜をした明け方に窓の外が既に明るくなっているのを見て「もう朝か」とつぶやく時にも使いますし、「そんなに俺のことが嫌いか!」と不満を爆発させる場面でも使います。疑問・気づき・不満に共通するのは何かと考えてみると、いずれも、話し手にはそうだと述べることを回避する事情があるということが分かります。疑問の場合は本当にそうかどうか分からないから、気づきの場合は気づいたばかりで内容が未消化だから、不満の場合は心理的に認めたくないから、と事情の内実は異なりますが、とにかくそうだと断定することを避けたい心情は共通するわけです。私たちは文末を「カ」で終える文を発話する時、いちいちそんなことを考えて発話しているわけではないのに、おもしろいですよね。
これまでに書いた論文の半分は現代共通語を対象とするもので、もう半分は過去の日本語を対象とするものですが、文法史研究でもやはり人間の創造性に触れた気がする瞬間があります。「実は今日、私の誕生日なんです」「そのお菓子、どこで買ったんですか?」のような文に見られる「ンデス」という文末表現は、江戸時代頃から用いられるようになったのですが、出現した当初は今よりもっと限られた使用法しかなく、たとえば疑問文に「ン(ノ)」が現れるのは「私が一生懸命話しているというのに、もしやあなたは寝ているんですか?」のような目の前の相手の言動に不満を持つ場面だけでした。そこから徐々に使用場面を拡大し、現代日本語では疑問文の約半数に「ン(ノ)」が現れるのですが、場面によって使うと不自然だったり、逆に使わないと不自然だったりします。疑問文における「ン(ノ)」の有無という区別は江戸時代以前にはなかったのに、一旦その区別が疑問文の下位分類として機能し始めると、人はその区別に持たせる意味をどんどん鮮明にしていくんですね。
だから結局、言語の研究は言語を使う人間の研究で、言語研究を通して人間の姿に触れることができた気がするのが私にとって言語研究の一番の魅力です。そういう意味では、言葉の中でも、規範性の強い書き言葉より、使い手の目論見や物腰がより形式に反映されやすい話し言葉に関心の中心があります。学生時代に指導教員の先生から「あなたはよくしゃべるから話し言葉を研究した方がいい」と言われたのを素直に受け取って、疑問文やノダ文をはじめとする話し言葉の研究を始めたのですが、話し言葉の文法には不満や驚きを表明したり、相手を説得しようと言葉を尽くしたりする話し手のリアルな姿が投影されていることが多く、その一端に触れた時はやはりとてもわくわくするので、あの時の先生の見立ては間違っていなかったんだなと折に触れて思います。

言語を操る人間の営みへの関心ということで言えば、翻訳にもずっと関心があります。私の能力の限界で、研究対象が日本語と英語に限られますが。日本語で書かれた小説とその英語翻訳版を対照すると、同じことを表現するにしても言語によって表現の仕方が大きく違っていて、それは言語がそれを話す人間のなし得る表現の幅を縛っているとも言えるのですが、言語と人間の自由ならざる関係が感じられておもしろいなあと思います。一方で、最近、平安時代に書かれた源氏物語とその英語翻訳版を比べてみたところ、大胆な意訳のように見えるところでも実は文法構造が驚くほど共通している箇所があり、そこには言語の違いを超える人間の普遍性のようなものが透けて見えます。
数ある言語の中で日本語を研究対象に選んだ決め手は、内省が利くということでした。こういう場面ではこういう形式の文を好んで発話する、少し形式が変わると相手に伝わる表現の意味合いも変わるというようなことを自信を持って考えたかったのです。とはいえ、これまでの研究を振り返ってみると、自信を持って内省を発揮できるはずの現代語を、過去の日本語や他言語と比べて相対化しないと理解した気がしないようです。
内省っておもしろいもので、授業で学生さんと議論をしていると、内省には個人差があることに気づかされます。また、私の場合は自分の母語を「内省が利く言語」として研究対象に選んだわけですが、母語でなくても十分に堪能であれば内省が利くということは強調しておきたいです。これまで机を並べて勉強してきた仲間や、授業で接する学生さんの中には日本語の非母語話者も多いですが、日本語が堪能であれば内省が利きますし、母語話者にはない視点から鋭い指摘ができるという強みもあると感じています。日本の大学においては、母語か否かにかかわらず、日常的に日本語を用いる人が集まっていて、日本語学を専攻している学生でなくても内省を利かせて議論に参加する余地があります。そういう意味で、日本語の研究は相当に身近な学問で、だからこそそこに人間の姿を垣間見る喜びも大きい気がしています。