文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。

八尾 史 准教授(インド哲学仏教学研究室)

 井上靖『敦煌』の終盤近く、オアシス都市沙州(敦煌)がいまや攻め寄せる西夏軍の蹄下に陥落しようとしている第八章に、こんな場面があります。戦火から避難する住民で混乱している街を通り抜け、大寺院の経蔵にたどりついた主人公の趙行徳は、経巻を選び出している三人の若い僧侶に出会う。寺に火がかかったら持って逃げるのだとかれらは言う。どうして経巻を置いて避難できないのかと問うと、一人が言う。

 「自分たちの讀んだ經卷の數は知れたものだ。讀まないものがいつぱいある。まだ開けてさえ見ない經卷は無數にある。――俺たちは讀みたいのだ」

 「俺たちは読みたいのだ」。読みたかった人、読まれるはずだった書物があり、人は土に還り、書物は灰となり、あるいは砂に埋もれて忘れられる。『敦煌』はフィクションですが、世界中およそ文字文化のあるところどこでも、こうしたことは実際に繰り返されてきたでしょう。
 古代インドの仏教の研究をしていますと、厖大なテクストが今では永久に失われているという事実に絶えず直面します。消滅した学派の伝えていた聖典、題名だけが伝わる注釈書、断片しか残っていない戯曲、散逸した章、中断された翻訳。それと同時に、まだ読まれていない、あるいはよく読まれていないテクストがいくらでもあるということにも気づきます。どこにも残っていないと思われていた文献が突然写本の形で発見されたり、何十年も前に報告されていた写本が実はとんでもなく重要なものだとわかったりする。
 遠い過去に書かれたものを今のわたしたちから隔てているものは物理的な破壊だけではありません。げんに世界中の図書館にあって、手をのばしさえすれば読むことができるのに、何が書いてあるのかほとんど知られていないテクストもあります。それらは単につまらないから読まれてこなかったのかもしれませんが、たまたまある時代の人の関心をひかなかったためにその内容が忘れ去られたのかもしれません。大蔵経とよばれる広く流通している叢書の中にも、今まで研究者に気づかれなかった(けれども何かすごい新知見をもたらすかもしれないしもたらさないかもしれない)テクストは数えきれないほどあります。



 仏教学というと「お経」の研究をする学問なのかなと思われるかもしれません。もちろんそれもありますが、お寺で読誦されたり解説書が出版されたりして世の中で知られている「お経」は、現存する仏教文献のほんの一部です。仏教文献の広大な海のなかには、想像力と創造力のかぎりをつくした目もあやな文学作品もあれば、精微深遠な哲学書もあります。そして、古代の人々がどんなふうに暮らしたり考えたり悩んだり争ったりしていたかを伝えてくれる、つまりわたしたちの知らないかつて存在した世界について、何事かを教えてくれる資料もあります。
 わたし自身はおもに、「律(ヴィナヤ)」とよばれる種類の仏教聖典を研究の対象としています。わりあいマイナーで、資料はたくさんあるのに研究の立ち遅れている領域です。大学院生時代、「律」の巨大な量に圧倒されながら「薬事」というその一つの章をどうにか読むには読んで、世界に一本しかない(と思われていた)サンスクリット写本は不完全なのでチベット語訳から翻訳しました。「薬事」は雑多な説話が大量につめこまれた錯綜した内容の章でひどい目にあいましたが、おかげでというかその後「律」の全体像が以前よりは明瞭に見えてきて、他の部分も少しづつ読みかじるうちに、この文献が段々とおもしろくなってきたように思います。「律」は、現代ではわからなくなってしまった大昔の僧院の運営規則や、出家した人の日常生活へのこまごました指示や、素行の悪い坊さんが何か不始末をしでかして仏様に叱られたみたいな話に満ちているのですが、そういった記述の中から、物語が語られた時代の社会制度や経済や文化、仏教と他の宗教の関係、そして人々の知っていた仏教聖典がどのようなものだったか、等々を知る手がかりがときに転がりだしてくるのです。
 けれども「薬事」からもなかなか解放されませんでした。博士論文を提出した翌年になって、「薬事」を含む未公開のサンスクリット写本があることを知ったからで、あるとなればこれは読まないわけにはゆきませんでした。チベット語訳ではどうしてももとの意味がわからないところが多くあったからです。さいわいにしてその研究に着手させてもらえることになり、樺の木の皮(に昔は字を書いたのです)が砕けたりくっついたりしているその無残な姿に頭を抱えながらもぽつぽつ読みはじめてみると、はたして多くのことがわかってきました。十年以上たち、最近ようやく「薬事」の部分を出版して肩の荷がおりましたが、その写本には他にもまだまだ読むべきところが残っています。

 読みたいと人が思うこと、は言葉を扱う学問の根源的な要素だという気がします。そこに砂の中から見つかった書物があって、千数百年前の文字がわたしたちの手元に届いているということ。あるいは、まだ一度も近代言語にうつされていない文章があるということ。それを辞書と首っ引きで読むうちに、テクストのなりたちや、伝承していた人々のことまでもがおぼろげながらわかってくること。その読む行為が、読みたいと思っている他の人の役に立つ(かもしれない)こと。そういったことは、律研究の、あるいはインド仏教研究の魅力のひとつといえるかもしれません。
東京大学・教員紹介ページ
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/people/k0001_04876.html
 
文学部・教員紹介ページ
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/database/15323.html