文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。
髙岸 輝 教授(美術史学研究室)
日本美術史、なかでも中世(平安末~室町時代)の絵画(絵巻、肖像画、仏画、屏風絵、襖絵)を専門としています。絵師たちの技術伝承と組織継承、彼らに作品を注文した世俗権力や宗教権力が絵画に期待した機能、制作を背後で支えたプロデューサー(公家、武家、僧侶)たちの学問や思想を、絵画の調査と文献史料の分析から把握することを目指しています。ひろくいえば芸術と人間社会の関係に関心がある、ということになります。
美術史という学問に出会ったのは、大学に入ってからでした。もともと自分自身でものをつくること、表現することに関心がありましたので、他人の作品を論じることには抵抗がありました。展覧会に足を運びはじめたきっかけも、自らが創作を行う際のヒントを得たい、という動機からだったように思います。しかし、美術館・博物館に訪問を重ね、寺社・教会の建築を巡るうち、古今の魅力的な造形の背後には制作に直接携わった人々だけでなく、保存や修復、鑑賞や記録、研究や展示に関わってきた数多の人々がいたことに思いが至るようになりました。造形が、時代や地域を超えたチームワークによって存立していることを考えれば、それらを一握りの「芸術家」による個性や才能の発露として見るだけでなく、チーム全体の成果として考えることが大切です。過去の作品であったとしても、われわれが興味関心を抱き、研究に一歩踏み込んだ瞬間にそのチームの一員として加わることができるのですから、「他人の作品」という考え方はそもそも見当違いだったということでしょう。
最近、鎌倉時代に橘成季が編んだ『古今著聞集』(1254年)を読んでいたところ、美術史の根幹を的確にとらえた一節に逢着しました。
天福元年(1233)、後堀河上皇(1212~34)と中宮の藻璧門院(1209~33)らは「絵づくの貝覆い」を開催しました。二つのグループに分かれて貝合わせで競い、敗者は勝者に対し絵巻を贈るという風雅な遊宴です。藤原定家(1162~1241)らをプロデューサーに迎え、『源氏物語』『狭衣物語』などを題材とする大量の絵巻が制作されました。ところがイベントの直後、後堀河と藻璧門院は相次いで亡くなり、皇子の四条天皇(1231~42)も夭折して皇統は途絶えてしまいました。橘成季は、わずか二十年ほどの間に絵巻の「御ぬし」(所有者)が転々と変わったと述べたうえで、これらが「はかなき筆のすさみ」(儚い筆の遊び)であるにもかかわらず、確かに遺されていることへの深い感慨を示しています。政治経済の激動や天変地異が相次ぐなかで、紙や絹という脆弱な素材に描かれた絵画が保存されていることの不思議さと有難さ、そこに美術史の拠って立つ基盤があります。成季の一文を読んだとき、私は「見ぬ世の友」に出会ったと感じました。「見ぬ世の友」とは、生きた時代が違って直接に会うことはできないけれども、同じような関心や思考を共有する仲間のことを意味します。
現代に遺された日本の絵画は、過去の社会をビジュアルな形で見せてくれます。これらを文献史料と照らし合わせることで時代の文脈に沿った読解が可能になり、作品に関わった人々の世界観が立ち現れてきます。国内だけでなく、世界の各地にはわれわれの発見・評価・研究を待ちながら眠っている作品群がまだまだあります。現在、ボストン美術館をはじめとする海外所蔵の日本美術を調査するとともに、最新のデジタル機器を活用して高精細撮影と表現技法の分析を進め、これらのアーカイブス化を行っています。人文情報学との連携は、今日の美術史を未来の「見ぬ世の友」たちへと伝える有力な手段であると考えています。
美術史という学問に出会ったのは、大学に入ってからでした。もともと自分自身でものをつくること、表現することに関心がありましたので、他人の作品を論じることには抵抗がありました。展覧会に足を運びはじめたきっかけも、自らが創作を行う際のヒントを得たい、という動機からだったように思います。しかし、美術館・博物館に訪問を重ね、寺社・教会の建築を巡るうち、古今の魅力的な造形の背後には制作に直接携わった人々だけでなく、保存や修復、鑑賞や記録、研究や展示に関わってきた数多の人々がいたことに思いが至るようになりました。造形が、時代や地域を超えたチームワークによって存立していることを考えれば、それらを一握りの「芸術家」による個性や才能の発露として見るだけでなく、チーム全体の成果として考えることが大切です。過去の作品であったとしても、われわれが興味関心を抱き、研究に一歩踏み込んだ瞬間にそのチームの一員として加わることができるのですから、「他人の作品」という考え方はそもそも見当違いだったということでしょう。
最近、鎌倉時代に橘成季が編んだ『古今著聞集』(1254年)を読んでいたところ、美術史の根幹を的確にとらえた一節に逢着しました。
「時代いくほどもへだたり侍らねども、御ぬしはおほくかはらせ給ひぬ。はかなき筆のすさみなれども、絵はのこりてこそ侍らめ。あはれなることなり。」
天福元年(1233)、後堀河上皇(1212~34)と中宮の藻璧門院(1209~33)らは「絵づくの貝覆い」を開催しました。二つのグループに分かれて貝合わせで競い、敗者は勝者に対し絵巻を贈るという風雅な遊宴です。藤原定家(1162~1241)らをプロデューサーに迎え、『源氏物語』『狭衣物語』などを題材とする大量の絵巻が制作されました。ところがイベントの直後、後堀河と藻璧門院は相次いで亡くなり、皇子の四条天皇(1231~42)も夭折して皇統は途絶えてしまいました。橘成季は、わずか二十年ほどの間に絵巻の「御ぬし」(所有者)が転々と変わったと述べたうえで、これらが「はかなき筆のすさみ」(儚い筆の遊び)であるにもかかわらず、確かに遺されていることへの深い感慨を示しています。政治経済の激動や天変地異が相次ぐなかで、紙や絹という脆弱な素材に描かれた絵画が保存されていることの不思議さと有難さ、そこに美術史の拠って立つ基盤があります。成季の一文を読んだとき、私は「見ぬ世の友」に出会ったと感じました。「見ぬ世の友」とは、生きた時代が違って直接に会うことはできないけれども、同じような関心や思考を共有する仲間のことを意味します。
現代に遺された日本の絵画は、過去の社会をビジュアルな形で見せてくれます。これらを文献史料と照らし合わせることで時代の文脈に沿った読解が可能になり、作品に関わった人々の世界観が立ち現れてきます。国内だけでなく、世界の各地にはわれわれの発見・評価・研究を待ちながら眠っている作品群がまだまだあります。現在、ボストン美術館をはじめとする海外所蔵の日本美術を調査するとともに、最新のデジタル機器を活用して高精細撮影と表現技法の分析を進め、これらのアーカイブス化を行っています。人文情報学との連携は、今日の美術史を未来の「見ぬ世の友」たちへと伝える有力な手段であると考えています。
