文学部とは、人が人について考える場所です。
ここでは、さまざまな人がさまざまな問題に取り組んでいます。
その多様性あふれる世界を、「文学部のひと」として、随時ご紹介します。
編集部が投げかけた質問はきわめてシンプル
「ご自身の研究の魅力を学生に伝えてくださいませんか」。

日向 太郎 教授(西洋古典学研究室)

私の専門分野は西洋古典学です。それは、古代ギリシア語やラテン語で記された文献を、さらにはこの二つの言語そのものを研究する学問です。とりわけつよい関心を抱いている領域は、古典期(紀元前一世紀)のラテン語韻文です。具体的には、ウェルギリウス、プロペルティウス、ティブッルス、オウィディウスといった詩人たちの作品です。私がこの研究領域に向かうようになった経緯は話せば長くなりますが、今までまがりなりにも研究を続けてきたのは、彼ら詩人の作品にたしかな魅力を感じているからこそなのでしょう。

その魅力とは何かとあらためて問い直すならば、それはまず言葉に、とくにその響きにあるような気がします。古代人は音読を習慣としており、とりわけ韻文は耳で楽しむものでした。少し細かな話になりますが、ギリシアやラテンの韻文は長音節と短音節の一定の組み合わせ(とその規則的繰り返し)によって成り立っています。ですから、韻文を朗読してみればある音楽的な調子が備わっているように感じられます。そして、脚韻はないものの、ときに詩人は音の反復が作り出す何らかの効果を意識していたように思われます。たとえば、同じ子音で始まる語を一行のなかに複数配してみたり、同じ語末音節を持つ語を連続させたり、同じ単語や詩句を畳みかけたりすることが、ある種の調子を生み出します。こうした工夫が単語の意味とあいまって、文の意味内容にも幅や奥行き、輝きや陰影を与えるのです。

もちろん、妙なる響きや調子についての注意深い配慮は韻文に限ったものではありません。散文、とりわけ弁論に認めることができるでしょう。そもそも、ギリシア・ローマの社会においては、聴き手の注意を惹きつけ説得するような話を展開することが関心事であり、そのための方法が徹底的に探究されました。それが修辞学です。語句や表現の次元にとどまらず、叙述の着想や構成、話題の選定や配列、そして発声法にもかかわる体系的な方法論です。議会や法廷において実践される実用的な学問であり、古代人にとって必須の基礎教育でした。否むしろ、古代のみならず中世以降のヨーロッパにおいても、修辞学の伝統は受け継がれています。

西洋古典学研究室にて

西洋古典学研究室にて

 

ラテン語韻文は、基礎教養としての修辞学を前提としながら、ヘレニズムを経由したギリシア語韻文の伝統にも与っています。たとえば、ラテン詩人たちが親しみ、研究し、模倣したホメロスをはじめとするギリシアの詩人のテクストは、ヘレニズム期のアレクサンドレイアの図書館で活動していた学者たちの校訂や注解に拠っています。学者たちの何人かは、同時に詩人でもありました。なかでも、紀元前三世紀に活躍したカッリマコスは影響力のある詩人であり、その作品中で謳われている文芸的綱領(機知と諧謔、豊かな学識、洗練された言語、そして斬新さ)は、古典期のローマ詩人たちが標榜する理想ともなりました。さらに、彼らの作品には、先輩にあたるようなラテン詩人や同時代の詩人からの言葉や発想の模倣や借用も認められます。

つまり、古代ローマの詩人について研究するということは、その作品の響きに耳を澄ましながら、修辞学や在来の文学的伝統を視野に入れることを意味します。そして当然のことながら、詩の成立に不可分にかかわっている作者の時代、歴史的状況にも十分な考慮を払うことが必要です。また、本文を伝える写本は、作品成立とは時代的に大いに隔たっており、少なくない転写上の誤謬を含んでいると疑ってかからねばなりません。そこで、写本校訂、本文批判が行われることになるのですが、それはまさに言語、文学史、歴史、古文書学などに通暁した総合的知の結晶であり、西洋古典学の基盤となるものです。

くわえて、古代ローマの詩人、とくにウェルギリウスやオウィディウスは、後世においても忘れられることなく読み継がれたという経緯があり、中世、ルネサンス、近代にわたって多くの作家たちに影響を及ぼしてきました。また、忘れられていた作家の写本が、ルネサンスの人文主義者によって再発見されて、著述活動に利用される場合もあります。このような古典作品の受容も、私が楽しみに取り組んでいるもう一つの研究領域です。ボッカッチョが、修道院に埋もれていたタキトゥスの歴史書の写本に邂逅し、『名婦伝』や『異教の神々の系譜』にまさに写本から知り得た情報を記していることを「ボッカッチョの古典研究」として、『東京大学文学部次世代人文学開発センター研究紀要』第34号(2021年)に報告しました。ありがたいことに写本のデジタル化は進んでおり、受容研究は今後色々な発見が期待できる分野だと思っています。

これほど多くの知を一人の人間が十分に身につけることは、たしかに容易なことではありません。しかし、根っからの楽天家である私は、こういうことを述べて自身の至らなさに気づきながらも、だからこそ西洋古典学は一生をかけて取り組む価値のある学問なのだとあらためて納得する次第です。

 

 

過去に掲載した文学部のひとについてはこちらをご覧ください