島田 竜登(東洋史学)

大学に入学したのは30年以上前のことである。1992年4月に早稲田大学政治経済学部経済学科に入学した。大規模大学であったので学内の施設は多数あったが、なかでも中央図書館が好きだった。入学の前年に開館した新しい図書館である。特筆すべきことは、地下の書庫に入学したての学部学生も入ることが日常的に許され、貸出しもしてもらえた。

大学図書館の書庫は、私がそれまで知っていた世界とは全く異なっていた。膨大な日本語図書が納められているのはもちろんだが、よく見ると、図書というよりは、パンフレットといった類のものもあれば、科学研究費の報告書などもあった。かつての教授たちが寄贈した特殊文庫などには赤線やメモ書きが生々しく記入された図書もあり、私にはまさしくワンダーランドであった。

そしてもう1つ、大学図書館の書庫に入って驚いたことは、外国語の図書が無数に納められていることであった。英語の図書が多くを占めていたが、フランス語やドイツ語、中国語といった図書のほかに、韓国語やロシア語など、当時の私には奇異でしかなかった文字で書かれた本が沢山あった。学術の世界とは無縁の家庭に育った私には十分に好奇心をそそる場であった。

書庫に納められた図書をあれこれ手にして、ちょっとでも興味があれば、書庫内の机に座ってすぐに読むことができた。例えば、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』の原書を紐解いてみたりした。習いたてのドイツ語ではほとんど歯が立たなかったのは事実だ。とはいえ、本文は1行しか記されておらず、残りは全て脚注で占められているページを見ると、なんとなく学問の厳しさが感じられたのと同時に、いずれは、どうにかして読めるようになりたいと思ったことはよく覚えているし、実は時々、あの時の情景が今でも夢に出てくる。

さらに、大学図書館の書庫について驚いたことがある。それは火災発生時のルールだ。書庫で火災が発生した場合、規定の時間までに書庫から退出しないと死ぬことになる。書庫内に二酸化炭素だか何やらを充満させ、火災が拡がるのを防ぐためだ。つまり学問の世界では人の命よりも優先するものがあり、それが図書であるというのである。書庫に入庫するというのは自分の命をリスクにかける行為なのだ。そうであるほどに、学問は偉大なのだと思い知らされた、というよりも若い心で勝手に学問の偉大さを解釈したのであった。

考えてみると、人生における最大の「私の選択」は、学部学生時代の書庫にあったといえるだろう。私は万巻の書物とずっとかかわっていきたい。図書館の書庫とは人類の知の集積である。今はよく読めないが、いずれその行間も十分に理解できるようになりたい。そして、かなうことなら自分も、ほんのひとかけらであっても、その知の集積の一部になりたいと思った。その後、大学院に入り、歴史好きから歴史学を専門とした。韓国やオランダの大学に留学したり、世界各地の図書館や文書館に出入りするようになって現在に至っている。図書や文書や古記録など、文字で書かれたものとのかかわりの原点は、やはり学部学生のときの大学図書館の書庫に原点があるといって間違いがない。

ところで、早稲田大学に学部学生として入学した当時、学部新入生であっても大学図書館の書庫に入ることができるというのは、当たり前のことのように考えていた。しかし、今にして思うと、ずいぶんと太っ腹な大学であったと考える。なぜなら、その後、国内外の複数の大学に所属したが、学部学生であっても書庫に自由に立ち入らせ、かつ貸出しも同時に認める大学は稀であったからである。若い多感な時期に書庫に入って自由に図書を手にすることができる環境を提供するのは、将来の学問の担い手を育成することを使命の1つとする大学のなすべきことではないかと思う。いや、そこまで堅苦しく述べなくとも、万巻の書籍のなかで、自由に図書にアクセスできる状態で、とある1つの本を手に取り、ページをひらき、期待でワクワクする気持ちを全ての学部学生に一度は味わってもらいたい。

もちろん書庫入庫に制限をかけざるをえない様々な理由があることは理解している。第一に、大学図書館は、図書という知の集積を将来にまで残すという重要な使命を担っている。それゆえに後世に残すべき図書を自由気ままにアクセスすることを制限せざるをえない。第二に、書庫内は人が少ないので治安上の問題もある。どこの図書館とは言わないが、書庫内で男女が抱き合っているのを目撃したことがあるが、それは序の口にすぎない。図書のページ切り取りをはじめ、何やら分からぬことをしている人を目撃したことは数限りなくある。

さらに近年、多くの大規模図書館では、自動書庫システムが導入され、勝手気ままに本を取り出すことは事実上不可能になった。コンピュータに図書取り出しのオーダーをかけると、機械が該当図書をカウンタ―まで運んでくれるというシステムである。便利といえば便利だが、読みたい図書が配架されている書棚に並ぶ他の図書をチェックするということができなくなった。無論、書庫スペースの狭隘さと可能な限りの万全の保存体制の構築を考えると、自動書庫の導入は無理もない。自動書庫であろうとも、ともあれ図書を置く場所を確保できることは、なによりもありがたいというのが現状なのだ。

さて、以上、自分の経験などを雑駁に記してきたが、所詮自分の経験に過ぎぬことを文章にするのは、なんとはなしに気恥ずかしさを感じる。書庫に入ってあれこれ本を探すこと、そして本を読むことなどは、突き詰めてみれば、単に自分の欲望を満たしているに過ぎないからだ。しかも、自分が経験したことを若い人に味わってもらいたいなどと述べるのも、自動書庫システムに愚痴るのも、老害の類なのかもしれない。そもそも時代は変わっている。若い人はその時代に応じて、知の集積への接触を、自分とは違う形で図っているのであろう。そういうことを想いつつ、老眼が年々強くなっていく私は、毎晩、今日の読書はここまでにしておくかどうか、「私の選択」というか、「私の決断」を行っている。