村上 郁也(心理学)

「私の選択」という題目で今専門にしている学問との思い出などを題材に文章を書くというような行為、皆さんは普通にできるのでしょうか。学問との思い出の中で何かを選択したことを思い出して示せと言われても、ぴんと来ない。選択なんてあったのか。例えば日常的にお昼は何を食べようとかいうことでは迷ってばかりで近場を一回りしてから結局学生食堂の「銀杏メトロ食堂」でかき揚げそばを注文したりして、しかしかき揚げそばであれば少し歩けば大学の近所の立ち食いそば屋でだってなかなかのものもあるしそもそも本郷でそばといえばいくつも魅力的な老舗そば屋や新店があってそれぞれ乙なものだし、ただ最近の学食の麺類って進歩していて驚くほどの完成度で文句の言いようもなく、さはさりながら文句の言いようのない学食といった時点で形容矛盾くさく、学食はうまいからまづくまづいからうまいので、と内田百閒的に以下延々と続き、そうした昨日の逡巡はありありと思い出せていくらでも書けても、ひるがえって、私自身の人生航路なるものにおける選択がどうだったかなんて、何だかよく思い出せやしません。

それは記憶がないからです。

そりゃあ重大な選択は人生の中でいくつもしたでしょう。その選択が成功なことも失敗なこともあり、その時点では選ぶのに迷いもしていたのでしょう。ところが、今にして思えば自分がここにあるのは既定路線、ごく普通に暮らしていってすごろくのコマを進めていったあげくの果てがこの姿、としか思われない。

私が私であること、小学生、中学生、高校生、以下続く、だった自分が今の自分と同じであったアイデンティティはあります。なければ困る。そしてもしかするとそのアイデンティティの連続性が優先されるがゆえに、過去の自分が行った選択の記憶がない、ということかもしれません。

かき揚げそばで迷った話は、心理学では「エピソード記憶」と呼ばれるカテゴリーに属する記憶です。出来事の記憶。自分が行った出来事、しかも昨日のことですので、そのときに感じた数々の省察とともに、ありありと思い出せる。人生航路なるものにおける数々の出来事も、その出来事の直後では覚えており、そのいくつかは今でも鮮明に覚えていましょう。高校3年時に東大で入試に臨み、昼休みに食べたおにぎりの湿った海苔の磯々しい香りは今でもありありとプルースト的に思い出せます。そして、たとえば東京大学文科三類に入学したとか後期課程では心理学専修課程に進学したとかといったように、自分の社会的状態が遷移したなら、それらの事象の記憶は自分を定義づける意味に関する記憶なので、「意味記憶」のカテゴリーに属する記憶になります。

そのような自分をとりまく記憶がまとまって、自分がこれまで何をしてきてどんな地歩を進んできたかに関する思い出を、「自伝的記憶」と呼びます。私にもそれはあります。大学院に進み、心理学という学問の広やかな可能性に傾倒し、かつ、発展目覚ましい神経科学の技術革新に伴って心的活動を支える脳活動の計測が実現可能になっていくという時代的息遣いに興奮し、当時の電子技術総合研究所、生理学研究所で訓練を受け、大切な恩人たちと出会い、東京大学では駒場東大前駅近くの某そば屋で当時から有名な「冷やしたぬきそば大盛り」の量を初体験してぎりぎり完食し、電総研界隈では「地獄ラーメン」という激辛ブームの走りを初体験して胃袋の刺激感に驚嘆し、生理研界隈では味噌煮込みうどんを初体験してその圧倒的滋味に瞠目し、そしてハーバード大学視覚科学研究所で研究プロフェッショナルとして磨かれ、そこはボストン近郊だったので麺類としては近所に存在したラーメン店のこれがまたひき肉どっちゃりのぬるい汁に踊る細長いものを決してすすってはならずただすくって口から垂れ下がる前に噛み切って汁に落とすという米国の作法を学び、その後は我が国で認知科学のメッカである研究施設を抱える企業に入って研究に従事し、新興勢力たる横浜家系ラーメンを初体験して自分の知る横浜文化からの乖離に唖然とし、それから本学准教授に着任し、それ以来しばしば学生食堂でかき揚げそばを食べている、そうした自分の来歴とそのときどきでの出来事の思い出からなる集合体として、「自伝的記憶」をもってはいます。

ただ厄介なのは、記憶は作られる、ということです。私の「自伝的記憶」は、常に真実であるとは限らない、むしろ真実でない方が都合がいい。アイデンティティを守るためには、自分の過去の記憶を塗り替える。みんなやっていることです。履歴は変えられないし、いつどこでどんな麺類を食べたかも事実としては変えられませんが、そのときどきで何を思ったか、どんな選択をしつつあるのだと納得して意思決定して行動したか、そんなことは内心の自由に属する問題ですので、自分の好きなようにいつでも書き換えることができます。そうして、私がある時期に何か重大な選択をしたかしないかのような振り返りをしている瞬間に、私は自らの「自伝」を現在の自分のアイデンティティとつじつまが合うように心の中で創作物として自動的に都合よく編集しているわけです。それゆえ、大学院修了直後にその直前の履歴である自分の学部生時代の思い出を語る場合と、今この瞬間にはるか昔である自分の学部生時代の思い出を語る場合とで、同じ時代に関する記憶のはずなのに、まったく異なる見解をもつことがあります。そしてその方が人間としては自然な振る舞いなのです。

というわけで、確かに私は今専門にしている学問との関係でいろいろ何か選択したはずです、が、そのように選択したことを思い出せません。思い出せないように記憶を書き換えてしまったのに違いありません。入試のおにぎりだって本当は食べてなかったかもしれません。そして、今だから自信をもって言えます。心理学はこの21世紀において、他のどんな学問に比べても群を抜いて最も発展性のある素晴らしい学問分野です。絶対そうです。そうに違いありません。自分のアイデンティティを守るためには何度でも唱え続けます。