柳原孝敦(現代文芸論)

なりたいものになれたためしなどない。だからなりたいものにこだわらないことにする。それが私の人生のあらゆる選択を貫く態度だった。アスリートにもミュージシャンにもなれなかった。なれそうにないとの見込みはすぐについた。

高校は理数科という学科だったので、理科系の大学に進むつもりだった。数学者になれればと思っていた。高校での数学の成績は決して悪くなかった。むしろ良かった方だと思う。けれども、根本的には数学的思考と相容れない人間だとの自覚を得た。迷っているうちに、大学受験に失敗した。

落ちてみて気づいた。本当は大学など行きたくなかった。私は実は、喫茶店のマスターか古本屋のおやじになりたかったのだ。そう思い立って飲食店でのアルバイトを始めた。客商売なんか向いていないのだとやがて気づいた。途方に暮れた。しかたがないから大学にでも行こうかと思い立った。高校卒業後、一年半が経過していた。

しばらく受験勉強から離れているうちに、成績も鈍った。模試の結果や共通一次(センター試験の前身)の結果を見て、行けそうな大学の行けそうな学部・学科を三つばかり選び、鉛筆を転がして抽選した。一番気の進まない目が出てしまった。外国語学部のスペイン語学科(当時の呼称)だった。どうせならフランス語の方が良かったのにと思った。そういえば人生で一番最初になりたいと夢見たのはジャン=ポール・ベルモンド(ゴダールの『勝手にしやがれ』だ)だったのだし、フランスの作家なら馴染みもあったし……

でもきっと、このころには、自分が一番望むものには固執しないという態度を身につけていたのだと思う。まあいいか、と諦めて受験したら、案の定、合格した。スペイン語圏のことなんてほとんど何ひとつ知らなかった。外国語習得能力は低くはないとの自覚はあったにしても、スペイン語には何の憧れも思い入れもなかった。

かくして、あまり可愛らしくない大学生になった。憧れの女性を一晩中口説いて袖にされ、絶望して歩き回った徹夜明けの日、ふと入った映画館で少し人生が変わった。かかっていたのはビクトル・エリセ『エル・スール』だった。その年日本に紹介されたスペイン人監督だ。この映画をいつまでも観ていたいと思った。この映画になりたいと思った。こんな映画が撮りたいと思った。このシネアストと仕事がしたいとも思った。

でも私は、大勢の人と一緒に仕事をするのが苦手だ。映画監督など実際にはなれないと思った。そもそもなりたいものにはなれないのだし。ではせめてフィルムスタディーズでも学びたいと思ったけれども、その時の境遇を考え、とりあえず文学研究でよしとすることにした。

文学研究といえば19世紀と決まっている。なぜかそう思っていた。スペインのある作家を研究したいのだが、と相談に行った。相談したかった先生は不在だった。他の先生がたまたま通りかかり、その方の部屋でお話しした。20世紀の方が面白いよ、ラテンアメリカなんてすごい作家がたくさん出たことは授業で言ったよね? 読んだよね? とさとされ、考えを変えた。

大学院に進学したいと思った。そう思ったら、やはり、入試に落ちた。でもさすがに、二回目に受験したときには合格した。

こんな風に私は、一番進みたいと思う道を諦め、切り捨て、他の道を選択してきた。あるいはせいぜい回り道をしてきた。でも、誤解しないでいただきたい。一番なりたいものをあきらめるということは、挫折でも敗北でもない。悲しくも辛くもないのだ。一番のものをあきらめるということは、二番、三番のものにチャンスを与えるということだ。そのまま一番に固執していたら、二番手、三番手は切り捨てられ忘れ去られていたはずだ。一番を諦めるということは、忘れられていたかもしれないその可能性を見出すということだ。

数学は諦めたけれども、私は国語や英語だって得意だったし、好きだったのだ。大学入学後、エリセに出会うまでの間にも、第一志望ではなかったはずのスペイン語に、しかし、私は馴染み、それをあるていど習得していたのだ。フィルムスタディーズは諦めたけれども、文学作品にも子供の頃からずっと親しんできたのだ(そうでなければ古本屋のおやじになりたいなどと思わないはずだ)。19世紀研究はその時点では諦めたけれども、20世紀の作家たちをそれまでには読み、楽しみ、好もしく思っていたのだ。20世紀に目をやってみると、私の卒業論文の題材となったキューバの作家アレホ・カルペンティエールの翻訳者は、すぐ目の前にいたのだし(つまり、私が教わった先生ということだ)。私は一番の望みを諦めたとき、きっとその二番手、三番手の望みに気づいたのだ。その可能性を引き受けたのだ。そして歩き初めてみれば、この道もとても楽しい。

何かになりたい、この道を進みたいと思うのは、人間の意志の美しいあり方だ。けれども、そんな美しい意志など霞むほどに確固たるものは、彼/彼女が知らず知らずのうちに用意している文化的潜在能力の高さだ。二番手、三番手の可能性の多様さだ。一番の望みを諦めろとは言わない。だが、それに固執せずにもう一度自身とその周囲を見直してみようと言いたい。そうすると道が開けることもある。

ところで、大学院博士課程在学中、長編映画『マルメロの陽光』のプロモーションに来日したビクトル・エリセの通訳として私は一週間ばかり彼にはりつくことになった。濃密で幸せな日々を過ごした。現在市場に出回っている『ビクトル・エリセDVD-BOX』所収の各作品の解説リーフレットを執筆したのは私だ。エリセと仕事をし、彼の周辺で仕事をしたいという望みは、一部、叶えられたのだ。人生とはそうしたものだ。