加藤 陽子(日本史学)

教養学部2年目の4学期の過ごし方には、ふたつあったように思う。1980年代はじめごろの話ではある。ひとつは、教養課程における履修単位をクリアする3学期を終えた時点で、専門課程の文学部からの持ち出し講義という形式の科目形態を利用し、前倒しでたくさんの専門の単位を取ってしまおうとの先見の明のある者たちの道だ。ふたつは、せっかく詰め込みの教養課程が終わったのだから(体育という科目があるのはまだしも許せるが、男女混成チームの試合形式で授業が進む「野蛮さ」に私は辟易した)、持ち出し講義は進学先の研究室のものだけですませ、あとは4学期を伸び伸び過ごす者たちの道だ。

後者の道を私が選んだのは言うまでもない。「猫の手も借りたい」をもじった「文2の手も借りたい」との戯れ言がいつごろから駒場の流通物となったのかはわからないが、ゆるゆる伸び伸び過ごすことにしたそのころの私の頭に、「文2ってこんな感じなのかしら」との、まことに不埒な考えが去来したことは事実だ。その私の前に、本郷の日本史研究室から持ち出し講義のためにやってきたのは、近世思想史の尾藤正英先生と、近代政治史の伊藤隆先生であった。今にして思えば、前者はその紙上の論争の際の舌鋒の鋭さで、後者はその舌鋒もさることながらその風貌だけで、北野武監督の映画『アウトレイジビヨンド』(2012年)からお誘いが来てもよい先生方だと言える。

尾藤先生のお話は、後に本郷に進んでから受けた難解な講義(会沢正志斎の国体論を読むというその講義は、今は三友館となった3番大教室でなされたが、常なる出席者は私を含め4人しかいないというすさまじさだった。いや、残らなかったというべきか。黒板の方を向かれて、尾藤先生はしばし長考に入られた)とは異なり、近世史をめぐる学説対立の大きな流れを掴んだわかりやすいものだった。いわく、日本歴史上、防衛機能を持たされた環濠集落が現れたのは弥生時代と15、6世紀の戦国時代の二度だけであることに注目し、16世紀に誕生した、「役」の体系としての近世国家の誕生をもって、日本史上の近代が始まったのだとの、実に魅力的な説を話された。これは後に、『日本文化の歴史』(岩波新書)に展開される考え方の一部をなす。

伊藤先生の場合、学生に無記名で先生への質問を記した用紙を書かせ、それに答えるという双方向の授業をされたのが新鮮だった。テキストとして指定されたのが中村隆英・伊藤隆編『近代日本研究入門』(東京大学出版会)であり、この本が至れり尽くせりの良くできた本だったため、講義では多少の遊びの余地があったのだろう。何も知らない私がうっかり、「近代には学説上の論争が他時代と比べてあまりないように見うけられるが、それはなぜなのか」と記した紙片を提出すると、悪いことにそれはしっかりと取り上げられ、ファシズム論争の一方の雄であった先生はかなりの時間を使って、論争の細部を語られた。

尾藤先生と伊藤先生による持ち出し講義は、ゆるゆる伸び伸びと4学期を暮らしていた私にとって十分興味深いもので、本郷の生活は楽しみなものとなった。ただ、学問としての社会学や政治学や経済学や物理学などを選択した友人たちを見回したとき、持ち出し講義などでそれぞれ展開される学問の質というものにはかなり違いがあるということに気づかないわけにはいかなかった。何を対象とするのか、どのような手順で研究は積み上げられるものなのかとの点で、歴史学殊に日本近代史の困難さは、現実政治との切り離しがたさという点で突出していると思われた。それでも、自分の選んだ学問領域が、いまだ学問の自立という点で混沌の中に沈潜しているのではないかとの危惧は、私を尻込みさせはしなかった。それ以降、学問としての離陸を可能とすべく奮闘した研究者の足跡をたどることが私の楽しみのひとつとなった。後に、自らが駒場の持ち出し講義を担当するようになったとき、ならば、講義内容にそれを盛り込まない手はないと思った。

帝国大学文科大学史学科内に史学会が組織されたのは1889(明治22)年のことだったが、創立当時の史学会大会などでは、明治の元勲級の政治家が普通に登壇していた。また、史学会創立と同じ年、島津家その他の六雄藩家と三条実美・岩倉具視の事蹟調査事業にあたっていた担当者たちを集めて史談会が組織されている。孝明天皇の践祚から廃藩置県までの短い期間を対象としてはいたが、近代史を学問として扱うにあたり、まずは史料編纂というスタイルが選択された点に注目したい。この史談会を核とし、1909年文部大臣の管轄下に維新史料編纂委員会が組織され、『大日本維新史料』の編纂が開始される。

史料自体は学問的な精査のもとに編纂されるが、編纂にあたった者がそれらの史料を用い、いざ近代の叙述をおこなおうとした場合、史学会大会でなされた元勲の回顧談とどれほど異なるものを書けたかは疑問だった。編纂にあたったひとりである藤井甚太郎(東京帝国大学文科大学史学科を卒業した後、1925年、官立大学初の維新史講座を京都帝国大学で担当した人物)の著作を評した小西四郎氏は、「金子堅太郎ラインの憲法制定功績史みたいなもので、ただ表面的になぞられたというくらいで、どうもあまり」と嘆じていた(「維新史研究の歩み 第6回 明治憲政史を中心として」、『日本歴史』第251号、1969年4月)。

現実政治の海の中に漂っていた近代史研究に大きな刺激を与えた者は吉野作造だった。我等の父祖が政治を我が事として捉えるようになること、すなわち、近代的政治意識を抱くようになる、その画期に吉野は近代を見た。目の醒めるような切り口で吉野が「我国近代史に於ける政治意識の発生」を書いたのは1927(昭和2)年のこと。吉野の奮闘以降、いかなる先達によって近代史研究が確立されていったのかの続きを読まれたい方は、拙著「政治史を多角的に見る」(『戦争の論理』勁草書房所収)を参照されたい。