多田一臣(国文学)

少し前ならとうに定年で大学を去っていたはずで、だからいわば「棺桶に片足を突っ込んだ」ような私が、昔の思い出話を語ることにどんな意味があるのか、よくわからないところがある。ましてや、進路選択を考える諸君のお役には立たないのではないかと思う。

昭和43年の入学だから、大学闘争の体験はいつまでも切り離すことができずにいる。いま考えると、大学が大衆化していく走りの時期だったのだと思う。東大に入学する女子学生がはじめて百人を越えたのもこの年だったように記憶しているし、建前上はともかくも、このあたりまでは、東大総長の権威は文部大臣よりもずっと上だった。何か協議すべき重大な問題があれば、文部大臣の方が総長のもとに足を運んでいたのではなかったか。こうしたことは、いまの諸君には、なかなか想像できないことだろう。さらにいえば、私の学年までは、まだ詰め襟の学生服を着るのがふつうだった。

一切が変わるのが、大学闘争が潰えてからである。昭和44年には、入試が中止となったが、この時には東大廃校が取り沙汰された。私たちも、大学が無くなったらどうするかを、けっこう真面目に考えたりした。居酒屋の女将になろうという先輩もいたし、京都出身の友人など、和菓子職人になろうかなどと話したりしていた。私自身は、狂言に打ち込んでいたので、修業して狂言師になってもいいかと思ったりもした。廃校にはならなかったけれど、本当に大学をやめてしまった仲間もいた。

いつのまにか大学が再開されることになり、わけのわからぬうちに本郷に進学することになった。ここで「私の選択」ということになるのだが、実は入学前から国文に進学することに決めていた。それは、高木市之助の『国文学五十年』(岩波新書)を読んだことが大きく影響している。複雑な家庭環境で育ったこともあり、そこから何か純粋な世界に憧れを抱いたということなのかもしれない。そこで、学問の世界、アカデミズムというものにつよく惹かれるようになったのだと思う。『国文学五十年』は、まさしくアカデミズムそのものの具現である東大の国文学の(ということは日本の国文学の)歴史を回想としてたどった一冊である。このアカデミズムは、しかし、一方では闘争の標的ともされた。大学の特権的なありかたそのものが批判の対象とされたからである。

それはそのとおりとして、いま急いで付け加えておくなら、アカデミズムが完全に崩壊してしまったいまこそ、むしろ真の意味でのアカデミズムを復権させる必要があるのではないかと痛切に感じているところである。なぜなら、学問とは、大学の大衆化とはその本質において背馳するものだからである。その意味で、すべての大学を横並びに置き、大衆迎合の姿勢をつよめるいまの文部行政の姿勢は、あきらかに誤っているといわなければならない。

さて、本郷の国文学研究室に進学したものの、闘争の余燼はいまだに消え残る状態であり、それゆえそこは、闘争への立ち位置が絶えず厳しく問われるような、はなはだぎくしゃくとした人間関係の場だった。そうした中で、何とか卒業論文をまとめて、大学院に進学することになったのだが、その折に先輩に連れられて、古代文学会という小さな学会に入れてもらった。当時、物語研究会とともに、正統的な学会からは、まるで鬼っ子であるかのように白眼視された学会である。そこでは、学問に対する倫理的な姿勢を厳しく学ばされた。他大学の同年代の研究仲間と知り合うことができたのは何よりの収穫だった。古代文学会は、一人の研究発表に三時間をかけ、そこでは徹底した批判が浴びせられる。批判されると、こんちくしょうと思うこともしばしばだったのだが、真摯なやりとりゆえに、そうした批判は後で大いに役立った。万一、この文章を読む諸君の参考になるとすれば、他大学も含めた研究仲間と広く知り合うこと、徹底した議論を積み重ねることが、学問を進める上できわめて重要だということを強調しておくことだろうか。

その後、やはり研究仲間と沖縄の、とりわけ宮古、八重山の祭りを毎年のように見学して回った。そこでは、共同体(社会)と個の関係、言語表現の背後にある世界像の問題、さらには言葉の想像力(言葉はもう一つの世界を作ることができるということ)の問題などを、突き詰めて考えさせられることになった。こうしたところで得られたものが、いまでも私の古代文学研究の大きな支えになっている。

 最後に余計なことを一つ。かつて文学部の研究室の便所に、正確な文言は忘れたが、「この便所は用水便所(注:水洗便所のこと)ですから、汚さないよう大切に使いたいと思います」と記した陶器製の小札が貼ってあった。「使いましょう」でもなければ「使いなさい」でもない、「使いたいと思います」という言葉。私は、いまでもここにこそ文学部の学問の根本の精神があると思っている。