鈴木 淳(日本史学)

準備不足のままの現役受験で三校を受けて全敗し浪人した私は、東大では文科三類を受験したが、他の大学では法学部や経済学部を受けた。文学部系を東大だけにしたのは、東大に受かるくらいの頭があったら好きなことをやって食べていけるだろうと思ったからだった。それは結果から見ればかならずしも誤解ではなかったが、駒場のクラスの人々との付き合いが深まるにつれ、自分の読みの甘さは認めざるを得なかった。語学で楽をしようという発想の人の多いはずの中国語クラスであったが、語学にしても学問にしても真剣に取り組み、あるいはすでに多くの知識をもっている同級生たちに驚かされた。自分が優れた学生でも、勉強好きでないことが良くわかった。

無理はしたくなかったので、駒場時代は、サークルを作り、クラス活動に取り組み、それが一段落した後は五月祭常任委員として過ごした。進学振分では、考えなしに教養学科の国際関係論を第一志望にしたが、落とされた。点が高くなければ希望の学科には進めない、などという事実からは目をそらしていたから、当たり前である。好きでなかった語学の点数は特に低かった。今にして思えば、語学をろくに学ばずに国際関係論をやろうなどというのは笑止千万なので、進学振分制度に少しだけ感謝している。

日本史に進んだのは、点数と語学の関係、そして進学後の選択の幅が広そうに思えたからであった。しかし、進学して早々、先輩たちに合宿に連れ出され、筆書きの崩し字を読まされたのは予想外であった。多くの学問で外国語の文献を参照しなくてはならないように、日本史を研究するには、漢文やわかりにくい古文、あるいは手書きの原史料を読まねばならない。文学部で学問に触れるというのは、そういうことに直面することである。

五月祭を無事に終えて、遅ればせながら本格的に向き合った日本史学の研究室は意外に居心地がよく、つい入り浸るようになった。駒場で輝いていた友人たちが熱心に民間企業への就職活動を始め、五月祭を熱心かつ官僚的に運営した仲間たちが公務員を進路に定めてゆく中で、自分は彼らが就職活動や試験勉強にあてるに違いない時間と労力を日本史の勉強にあて、大学院を受験する道を選んだ。自分の経験からは、なるべく多くの、どこかしら性格や好みが共通する同級生や先輩と知り合い、その進路を聞いたり、話し合ったりする中で自分にできることを見極めるのが重要だと思う。

教員になってから、駒場に五年間、文学部に十年間勤務したので、多くの学生たちの進路選択に立会い、また他の研究室の事情も少しはわかるようになった。向上心に富んだ教養学科生と接して、自分も国際関係論への志望を大切にし、そのために英語力をつけるという道もあったのでは、と思わないでもなかった。もしそれが可能であったとしたら、私は大学院には行かなかったであろう。仕事として研究をえらぶなら、自分が比較的無理なく取り組めなくては難しい。しかし、少しは英語力がつき、自分の勉学努力に自身を持った私が学部卒で就職したらより豊かな人生があったのでは、という夢は残る。希望する専攻に進むために成績を上げる努力をするのも、それは一つの正しい道である。

文学部に来てわかったのは、自分が日本史学でできることは幅広いと思っていたのは勉強不足のためだったということである。歴史の見方にはいろいろあるが、文学部の日本史は実証を重視しており、主題は日本史に関するかぎり何をやっても良いが、手法は実証的でなくてはならない。自分はたまたま文学部日本史の「実証」が好みに合ったので、日本史学を職業に選んだ。学部卒で就職する学生たちも、実証研究の面白さを感じられる人は、高く評価される卒業論文を書き、確かな学問をやった誇りを持って社会に出てゆく。一方、この研究の手法になじめず、良い思い出が残せない人もいる。日本史進学後に他の専攻へ移る人も毎年のようにいる。もちろん、やりたいことが見つかるなら一二年の無駄など何でもないので、それも良い選択である。しかし、多くの人が、後期課程で触れることになる「研究」が、語学力などの前提と、扱いたい対象、そしてその学問分野で要求される手法の組み合わせあることを意識しながら文学部教員の著書などにふれてくれたら、自分に適した選択ができる人が増え、また各研究室への進学希望者数が現在ほど偏ることもなくなるのではないかと思う。自分の過去を平気で語れるほど年をとったので、自分のことは棚に上げて、学生たちに期待する今日このごろである。