熊野純彦(倫理学)

ヘラクレスは、じぶんの道をえらぶべき時節となった機会に、閑静な場所をもとめて思案に暮れる。そこにふたりの女性があらわれた。ひとりは端麗で慎みぶかく、いまひとりは奔放な印象を与え蠱惑的である。ヘラクレスに近づいたとき、一方は歩調をかえず、他方は駆けよってくる。それぞれに説いたのは、人生の美徳と悪徳であった。ヘラクレスは前者にしたがう道をえらぶ。「岐れ道のヘラクレス」、プロディコスの作とつたえられる寓話である。発想の原型は、ヘシオドスの『仕事と日々』にうちにあるともいわれる。

そのむかし、とある講義でこの話を聞いて、なんだか妙に納得がいかなかった。全体として説教くさいなぁ、ということはべつとしても、生の選択ということがらを、文字どおり「岐れ道」のイメージに仮託して語りだすしかたに、軽い違和感をおぼえたものである。以来、選択ということばも、選択というふるまいもすこし苦手なまま今日にいたっている。

記憶をもうすこしさかのぼる。子どものころ、「友だちをえらびなさい」といわれて、ひどくとまどった。とまどったのは、親や教師が望ましくないと考えているらしい相手ほど、じぶんには魅力的だったこともある。またやや長じて、「あなたより優れた者を友とせよ」という英文を訳させられて、なんだかなぁ、と思ったこともあった。友だちって、そもそもえらぶものなのだろうか。他者の、たとえばあれこれの美質をくらべて、だれかを友だちとしてえらぶなどということがありうるのだろうか。それに「あなたより優れた者を友とせよ」って、なんだかひどく功利的で、すこしいやらしいのではあるまいか。だいいち、出会いというものはいつでも偶然的で、だからこそかけがえがないのではないか。とりあえずあまり関係はないけれど、じぶんより知ある者をもとめて問答を繰りかえしたともつたえられるソクラテスって、やっぱりすこしばかり偽善的(偽悪的?)な気もする。

ことを、恋愛に置きかえてみる。恋のはじまりに、たとえば選択が存在するだろうか。ひとは、だれかとだれかを見くらべて、だれかとの親密な関係をとりむすびはじめるのだろうか。そんなことはない、ような気がする。あるいは、そんなことがあったとしたら、それは恋愛ではない、ような気もする。すでに色恋沙汰から遠くはなれた者(筆者)が、遥かな時間をふりかえって考えてみるせいかもしれないけれど、だれかへの強い思いは、むしろ事故かなにかのように振りかかってきて、気がつくと身うごきもとれなくなっていたような気がする。よくいわれるように、恋もまた「えらぶ」ものではなく、「落ちて」しまうもので、そこで決定的なかたちではたらいているものは、熟慮のすえの選択というよりは、むしろ偶然の果ての必然ではないだろうか。ひとは、そして、そうした偶然を一箇の「運命」と考えたがるような気がする。恋愛とは、だから、たまたま起こってしまう事件であり、当人にとっては必然と思われるできごとである。偶然的なことがらが、やがてじぶんの生にとって決定的な意味をもつとき、ひとつの運命となるのである。

考えてみれば、「岐れ道のヘラクレス」という寓話を彩っていたものも、ふたりの、それぞれに魅力的な女性であり、作者はたぶんなにほどかエロス的なものとの類比にあって、ことがらを描きとっていたものと思われる。ヘラクレスは、そうすると、もしかすると、なにかをえらんだのではなく、なにかに惹きつけられ、他の可能性など考えることもできないかたちで、ひとつの方向へと吸いこまれていったのではないだろうか。岐れ道にたたずむヘラクレスにとってすら、問題は「選択」ではなく、避けがたい偶然のかたちをとって訪れた、あらがいがたい運命にあったのではないだろうか。ちょっとそんな気もする。

あれが、じぶんにとってひとつの「岐れ道」だったのだ。そう思える時節は、たしかにあるだろう。それは、しかし、いつでもあとになってからそのように思われる、回顧的な錯覚であるような気がしてならない。それでも、時がたってから、あれが「岐れ道」であったと思われるそのできごとが、ひとつの避けがたい運命のように感じられるとすれば、それは一般的な意味で、じぶんにとって意味のある出会いであったことだろう。当のできごとが、けれども、ふつうそう言われるようなしかたで「選択」ではないのは、じぶんの側に、その出会いを出会いとして迎えいれる準備がととのっていたからであるように思われる。それは、だから、たぶん選択ではない選択なのだ。一生つかずはなれず親しみあえる友人と出会うようなかたちで、じぶんの専門に出会うことができるなら、それは生涯の幸運である。恋に落ちるように、ひとつの学問分野に吸いこまれていくことがあったならば、それが理想的な〈選択〉というものだろう。駒場の時間は、そのような出会いを迎えいれる、長くはないけれど、じゅうぶんに開かれた時間であるように思われる。