一ノ瀬正樹(哲学)

夏目漱石がずっと好きだった。いまでも強い影響を受けている。哲学の在外研究でイギリスに滞在したときに、わざわざ漱石が住んでいたというロンドンのフラットまで出かけて、そのことを記してある「ブループラーク」(有名人の住んでいた場所にそれを記念して掛ける青い標識)の下で写真を撮ってきたくらいである。発端は中学一年生のときだった。読書といえばシャーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパン、明智小五郎ばかりだった私は、中学生になって急に(受験への漠とした不安からだろうか)、自分が誰でも読んでいる(はずの)有名な古典について無知であることに焦りはじめ、まずは最大にメジャーなように思われた夏目漱石を読もうと思い立った。『吾輩は猫である』、それが皮切りだった。「剣呑」だとか「タカジヤスターゼ」などというなんとも明治っぽい言葉が頻出し、いかにも教養あふれる風情でありながら完璧に滑稽な苦沙弥先生を中心に繰り広げられるいわゆる「高等遊民」的生活に、田舎育ちの子どもだった私は完全にノックアウトされてしまった。その後、高校時代まで『三四郎』、『虞美人草』、『草枕』、『硝子戸の中』、『明暗』など、繰り返し読みながら、「則天去私」という漱石の考え方にも感化されて、田舎者の柄にもなく、いや田舎者だからこそか、明治の洒脱でありつつも内省的な教養人になったかのような幻想に浸っていた。私の人格にとって、これはかなり大きな土台になってしまっている。

しかし、もう一つ中学時代には重大な出来事があった。やはり中学一年のとき、日本脳炎の予防摂取をした日の午後、友だちと汗だくになって遊び回った。すると、その晩、急に熱が出て、呼吸も苦しいような状態になってしまった。子どもながらも、自分が予防接種の直後に遊び回ったことの結果としてこのような事態になっていることがよく呑み込めて、「日本脳炎」というおどろおどろしい病気の名前が頭を駆けめぐり、激しい恐怖と後悔で一杯になった。いまとなっては大げさだが、「死」を意識したのである。幸い大事には至らなかったが(もっとももしかしたらいまでも治ってないのかもしれない...)、私は、なぜ人は生まれてきたのだろう、なぜ苦しむのだろう、なぜ罰や報いをうけなければならないのだろう、というような疑問を心の底から抱くようになった。それから、そのような話題について書かれてある本を少しずつ読み始めるとすぐに、当然ながら「哲学」に遭遇したのである。当時大学生たちの学生運動(70年安保闘争の前後)が盛んであり、親があてがってくれた家庭教師のお兄さんが学生運動の生々しい話をしてくれたこともあり、ヘーゲル、マルクスなどの名前を知り、解説書を読んだりして、思いっきり頭でっかちの哲学少年になっていった。ノンポリでいるのはとても恥ずかしいことだ、というのが高校生のときの私の認識だったのである。

このような私にとって、東大に入ろうというのは、ほとんど当然の願望になっていった。なによりも夏目漱石の母校であり教鞭をとったところであり、そしてなんとあの「三四郎池」があるキャンパス。ヘリコプターまで出動したあの東大闘争の象徴である「安田講堂」。いろいろな思いを含めて、それらが現に実在している本郷キャンパス以外に、あこがれの学問の府はなかった(いま思うと自分のあまりの青臭い幼さに気恥ずかしい限りだが)。さらに、中学生の頃から哲学に染まっていた私にとって、本郷キャンパスのなかでも文学部哲学科に進学することに一縷の迷いもなかった。私の場合、哲学を勉強するために東大に入り、実際に哲学を学び、いまでも哲学をし続けているのである。その意味で、本意にかなった選択をすることができたといえる。

けれども、万事思惑通りというわけにはいかない。ヘーゲル、マルクスに興味があった私は、文科3類に入った後、彼らの哲学の基盤となったカントを勉強し始めた。すると、カント哲学の背景にヒュームやバークリやロックといったイギリス経験論の哲学者がいることを知った。たまたま教養学科の大森荘蔵先生がバークリについての演習をされていたので、ヘーゲル、マルクスを勉強するためにはまずその演習に出て勉強するのがよいと思い、まだ二年生だったが、大森先生を待ち伏せて、許可をもらい出席した。その辺りから、少々予定が狂ってきた。いくら勉強してもヘーゲル、マルクスにまで辿りつかないのである。大森先生のいる駒場も魅力的ではあったが、すでに述べたように、私には本郷キャンパスの文学部で学ぶことが夢だったので、本郷に進学した。そして黒田亘先生のもとで、結局バークリについての卒論を書くことになってしまった。そのときには、私はほとんどノンポリの生活に浸っていた。どこがヘーゲル、マルクスなのか!! その後、英語圏の哲学に親しみ、時が経ち、ついにはその方面の哲学研究・教育を担当する教員として本郷に舞い戻ってきた。ある意味で、どうにも不本意な事態なのである。

さらに、いまにして思えば、そもそも自分が哲学研究にむいているのかはなはだ疑問に思うときがある。だいたい12歳や13歳ぐらいのときに人生の志望を決めるというのはよいことなのだろうか。もう少しいろいろと知識を得てから、決めた方がよかったのではないか。実際、その後の人生で自分自身を観察してみると、自分はもしかしたら商売人になったほうが充実していたかもしれないなどと思ったりする。結構好きみたいだからである。また、自分自身これほど動物が好きだということも、小さい頃には気づかなかった。動物関係の仕事もよかったかもしれないと思う。そう思うと不本意感がわき出てくる。しかし、もう戻れないのだから、開き直るしかない。そう覚悟して、私は最近、中学生のときの日本脳炎の熱のなかで思った疑問、「なぜ人は罰や報いをうけなければならないのか」、に立ち戻って、刑罰について本気で哲学的に考えていこうと考え始めている。そうすれば、本意を真に貫いたことになるからである。多分、どういう選択が自分の本意にかなっているかは、選択してからずっと後になって、遡及的に自分自身で決着させていくしかないのではなかろうか。よって、決着以前には、後悔や不本意感があることは、むしろ自然だし、必要なことなのではなかろうか。こういう弁解をぶつぶつつぶやきながら、私はいまも、里見美禰子が現れるかもしれないという幻想に浸りつつ、「三四郎池」を散策しているのである。