学問と社会の現在とこれからを考える vol.10
私の空車(むなぐるま)
池田嘉郎(西洋史学研究室)


1. 学問と大学

なにか分からないことや気になることがあるとして、それを納得がいくまで調べ、考え、その過程で新しい疑問が生じ、また調べて、思索して、といったことを積み重ねていくのが学問ではないかと思うのだが、これにはどういう意義があるのかという問いに答えるのは難しい。学問の意義について私なりに考えてきたのだが、突き詰めればそれは、「自分の人生の充溢が得られる」ということに行き着くのではなかろうか。私の場合、ロシア史であるとか、西洋史であるとか、文学であるとかが好きなので、そうした事柄について調べたり、考えたり、書いたりするのが楽しいのである。また、似たような事柄に楽しみを覚える人と議論するのが嬉しいのである。

それは趣味とはどう違うのかと問われれば、学問にはきまりがあるからという風に答えられなくもないのだが、しかし趣味にもやはりその楽しさを支えるなんらかの内的な論理が働いていよう。学問はそうした論理が第三者による検証を経ている点が違うのだとも考えられるのであるが、学問の楽しさを趣味の楽しさと峻別するに足るほどの重みを、果たしてそうした手続き面での差に託すことができるのかどうか、ためらわざるを得ない。ここはむしろ、手続き面での違いを超えて、楽しいものは共通だと言い切ってしまいたいだけの楽しさが、学問にはある。

だとすれば、そうした個人の充溢の追求を旨とするような物事に、おおやけの施設や予算をあてがうことが妥当であるのかという問いが、当然提起されるであろう。私はこの問いに対しても色々と考えてきたのであるが、多分に回避的に、次のように答えたい。いま現在、実際に、大学という形をとって、おおやけの施設や予算が学問のために割り当てられている。このように、大学という制度が存在していることは、日本社会が学問それ自体に対して—— 学問とはなんであるかという定義や、それにたずさわる個々人の内面における多様な動機についてはひとまず措いて —— なんらかの必要性を認めていることの証であると。私としては、現にそうした制度が存在することに、社会の一員として賛同したいわけである。

社会が支えてくれるそうした制度に拠るからには、できる範囲で、よき成果を挙げたいとも思う。学問には大学の外でもたずさわることができるのだが、大学はよりよい環境を提供してくれるのだから、なおさらありがたいのである。もちろん、体を壊しては元も子もないし、自分の力ではどうすることもできない困難もまま起こる。なので、無理はしないで、大学という制度に助けられながら、論文や本を書き、それを世のなかに伝える。そうすれば、読者もまた楽しみや喜びを感じてくれることがあるだろう。学生に対しても、講義やゼミや自分の仕事を通じて、それにまた、ただ同じ場に所属するということをもって、学問の楽しみを分かちあいたい。これらのことの結果として、「大学での学問がそうしたものであるならば、大学はなくてもよい」と考える人たちだけではなく、「大学はなお存続せしめるに足る」と考えてくれる人たちが一定数あり続けてくれるのであれば、私の考えるような学問と大学とは、日本社会においてこれからも残ることになろう。

もちろん、学生は私の学問観とは無関係に、大学という制度への信頼に基づいて進学し、ゼミを選ぶ。私は、大学という制度に拠って学問に取り組む以上、その制度に対する学生の信頼を尊重しなければならない。制度は、全ての当事者がそれについての認識と、それに対する信頼を共有しなければ、持続的・安定的に機能しない。だから、学生は適切な指導を受けられるとか、ひとりの市民たるにふさわしく遇されるとか、そうしたことは制度として、私を拘束する。

もうひとつ記すと、先に述べた通り、学問に取り組むための場所は、決して大学やその他の研究機関だけに限られてはいない。しかし、大学が大変に恵まれた環境を与えてくれることは間違いない。私は大学に身をおけることを、ありがたく思っている。一方で、本人の希望に反して、大学に身をおくことが叶わない、優れた研究者がいる。そうした人たちのために私にはなにもできないのだが、せめて研究共同体の改善のために微力を尽くしたい。

2. 言葉に制約をもつ人

大学に身をおけることだけではなく、学問に取り組めること自体もありがたい。根本的なところで私が考えているのは、知的な領域での障害によって制約を受けている人たちのことである。たしかに全ての人にとって、なにかをあらたに知ることは開かれている。そういう意味では、誰にでも学問は開かれているのかもしれない。だが、だからといって、彼らの受けている制約を少なく見積もることなどできない。

そのことと直接には関係しないのであるが、私はソ連の作家アンドレイ・プラトーノフ(1899‐1951)が、1930年代の初めの数年間に書き、推敲途中の原稿として遺した中篇小説『幸福なモスクワ』に惹かれて、翻訳を進めてきた。コミュニズムのユートピアと現実とを規範から外れた独自の文体で綴るプラトーノフの作品は、スターリン時代にはしばしば批判された。彼は失意のなか病気で亡くなり、『幸福なモスクワ』の存在はほとんど知られぬままであったが、ソ連最後の年である1991年に、初めて雑誌『新世界』に発表された。小説の主人公は、革命後に孤児となった少女である。元の名前の記憶もおぼろになった彼女は、社会主義ロシアの首都にちなんで、モスクワという名前をあらたにもらった。内戦期の放浪を経たのち、彼女は市場経済が復活した新経済政策(ネップ)の時代を孤児院と学校で過ごし、自分を大事にしない短い結婚生活を送り、ついで1920年代末から始まる工業化のなかでパラシュート士となって有名になるが、人々とともに生きたいという願いをいだいて地下鉄建設工に志願し、事故で右脚を失って、最後は首都の雑踏に消えていく。片足を失うまでのモスクワが、なにか心身の能力に制約を受けていたというわけではない。しかし、子供時代に荒廃と暴力と飢餓のただなかで放浪生活を送ったことは、明らかに彼女の内面に深い痕跡を残した。私のなかでは、少女時代のモスクワは、どこか言葉を発さない子供のイメージをもっている。そのことがこの小説に惹かれたわけのひとつであった。私はさる理由から、言葉に制約をもつ人、あるいは知的な領域での力の発揮が充全ではない人たちのことが気になって、そうした人たちのことをどこかで気にしながら、学問を続けていきたいと考えているのである。

大学という制度に拠り所を得て、恵まれた環境にいる私は、大学の外で大いに学問にいそしんだ人に対しても、頑張らねばならない。農学部や不忍池のあたり、潮見坂などを歩けば、おのずと鴎外のことが頭に浮かぶ。また本郷通りの道すがら、バスが脇を通り過ぎてゆけば、都電に飛び乗った石川淳少年――彼も大学の外で学問にいそしんだ人であった――が、鴎外といちどきり出遭ったのもこの辺であっただろうかと想像される。その石川淳が、『森鴎外』(1941年)のなかでまるまる引用しているのが「空車」(1916年)である。「白山の通り」を馬に挽かれ、人も騎馬も自動車も電車もものともせずに悠々とゆく、大きな空の荷車のことを、鴎外は空車(むなぐるま)と呼んだのであった。今日の白山通りは旧白山通りと違って幅が広く、自動車がびゅんびゅん通る。私は相手がよけてくれることは当て込まず、それにあまり重いのは力に余るから、小さな空車をそろそろと挽く、そういうつもりで学問を続けていきたい。力に余るといっても、人ひとりくらいならばなんとかなるかもしれない。なので、私は、誰か充全にもの言えぬ人ひとりに、自分の挽く空車に腰掛けてもらって、目の前の眺望が開けてゆくのを、いっしょに見てもらいたいと願うのである。

(2021年8月18日)