学問と社会の現在とこれからを考える vol.5
学問と社会をめぐる哲学からの考察
納富信留(哲学研究室)


学問と社会の位相

「学問」と「社会」という二つの概念を並べることは見かけほど自然なことではない。社会とは国や地域といった私たちの共同生活を意味するが、学問はその中で営まれる一つの活動、その成果の総体だからである。これら二者があたかも対立しているかのように論じられる現状を、まずは反省しよう。

学問と社会、どちらの主体も私たち人間であり、すべての人が多層的に社会に属すると同時に、多くの人が学問を学んだり教えたりしている。学校教育を受けて社会に出て一般教養を嗜む限りで、誰もが学問に関わっているからである。また、学問に専門的に従事する研究者や学生は、大学や研究所など学問社会の構成員である。つまり、学問と社会は異なる位相にある概念であって、単純に対立するものではない。また、学問社会とそれ以外の一般社会という語り方をすれば同じ土俵上の対立に見えるかもしれないが、そんな分断が存在するかは疑問である。何よりも、大学で教える私は日本社会の一員であって学問の研究教育に従事している。経済活動の一端を担っているし、政治にも一市民として参加している。地域社会の一員でもあるし、大学という組織では労働者である。それぞれの人が截然とどちらかに属するわけではない。

もし大学の外の社会 ―― 例えば、一般企業や役所や医療機関や家庭 ―― を基盤にしている人たちが学問に疑問を感じるとしたら、学者社会に対する違和感か学問の役割への不満かのいずれかであろう。前者であれば、「学問などという非生産的な活動をして報酬を得ているのはおかしい」とか、「学問という名の下で偉そうにしている」といった反発であろうが、どちらも正当な根拠を欠く感情論である(最初の論点については「ソフィスト」という問題に関わるが、別の機会に論じたい)。とすると、学問が社会においてもつ役割がここで検討されるべき課題となる。学問と社会という二つの集団が相争っているかのようなイメージは現状を捉え損なう。私たちそれぞれが社会と学問という二つの観点をどう織り合わせて生きていくかが問題だからである。

学問が担う役割

改めて問い直そう。学問は社会においてどのような役割を担うのか。学問は一部の特殊な人たちによって担われている閉鎖的な営みであるといった見方があるのなら、そのような誤解は解消されなければならない。学問の営みは社会が全体として担うものであり、仕方や程度の違いはあっても社会の構成員すべてが学問と関わって生きている。教育を通じて学問の基礎を身につけ、さまざまな専門知識を活用しながら経済や生活を営んでいるからである。さらに重要なことに、特定の目的のための必要性という範囲を超えて、豊かな生き方を目指して純粋な興味から学問に親しむ人も多い。

では、学問が社会において本来の役割を果たしていて、その認識が社会に十分に浸透していると言えるかというと、残念ながら心許ない。学問の側では、より細分化した専門性に閉じこもる傾向があり、同業者内での評価に依拠して外部の人たちに見えにくくなっている。反対に、一般社会の側では、学問も直接かつ即効で役に立つべきだといった期待が根強い。商品開発や経済予測といった実益に直結するもの以外では学問は好事家の趣味にすぎず、芸術のようになくてもよい贅沢品だという見方である。どちらの側にも問題がある。

芸術や文化もけっして社会に不要な余剰ではなく、人間として生きていく基本的な糧である。だが、学問の場合は単に役に立たないという以上に、政治や経済に対して批判的な立場に立つ、いわば足を引っ張る存在とさえ思われている。つまり、芸術は良くも悪くも無害であるが、学問はそれなりの力を持つがゆえに有害だとする見方である。学問の中でも、技術開発して社会実装できる応用研究に対して、人文・社会系学問は社会的影響の査定とか倫理的な規制とかを論じることから、熾烈な国際競争において経済発展の足かせとなっていると煙たがれるのである。

だが、学問の元となった古代ギリシアの「観想(テオーリアー)」は実利とは無縁の、遥かな視野をもつ根源的な追究である。つまり、社会の個々の必要性に合わせるよりも、できるだけそれと離れることで異なる視点から現状を捉えなおすことが学問の本質である。例えば、目の前の困難に振り回されている時、特定の事柄がきわめて重大でそれを解決しないと何も前に進めないように思われてしまう。だが、少し距離をとってその状況を長い歴史の視野で振り返ると、同様の、いや、より深刻な困難がしばしば起こっていたことを知り、それに対して人類が対処の知恵を培ってきたことに気づく。また、日本で深刻と思われている事態は、他の国や地域ではさらに大きな問題となっていて、それらが繋がって起こっていることなどを理解する。そうすることで、当初は未曾有の危機と思われた出来事が対応可能な考察対象となり、「想定外」として無視しようとした出来事が事前に考慮されるべき可能性だったことが判明する。

学問に対する反発は、そうした広い視野からなされる意見が社会に対して「批判的だ」として嫌われ、積極的な推進への妨害になると思われたため生じるのであろう。学問は何にでも反対するわけではないが、一度立ち止まって考え直す、つまり反省を促すことを特徴とするため、時間と手間がかかって面倒くさいとの印象を与える。社会で起こることには一度決めると取り返しのつかないことも多いため、学問での慎重で多角的な反省は必須だということは誰もが分かっているはずである。だが、実際に学問的な反省に巻き込まれると、多様な意見を精査しつつ結論のなかなか出ない議論をするよりは、誰かにズバッと決めてもらう方が簡単だと求める誘惑にかられる。そこでは、疑問や異論を唱えたり手続きを踏んで検討を続けるように促す学問的な発言は、社会の邪魔者として排除されることになる。

アブによる緊張と覚醒

だが、辛抱づよくいなければならない。即効的な働きはすぐに効果を失う。強力な推進には副作用を警戒すべきである。それに対して、私たちは知性をフル活用してあらゆる可能性を考え論じなければならない。それが学問を担う人間の能力、すなわち批判力である。とりわけ哲学は「批判criticism, Kritik」を基礎とし、私たちが何を知っているのか知らないのか、何を為すべきか為すべきでないのかを見極める原理的な思索であり、真に善い生き方への実践である。

誰でも自分の考えが批判されたり、覆されたりすると心穏やかではないし、相手に怒りをぶつけてしまうこともある。だが、批判という健全な刺激が私たち自身の考えをより良い方向に発展させ、自分一人では超えられなかった枠を打ち破るきっかけを与えてくれる。現状に安住することは快いかもしれないが、それはいずれ行き詰まって重大な失敗をもたらす。批判してくれる相手と向き合ってきちんと言葉で話し合う対話こそ、私たちが自分を変え、社会を変えていく最大の力である(拙著『対話の技法』笠間書院)。その健全な批判の力を培ってくれる訓練と手段が「学問」なのである。

もし学問と社会が対立すると考えるのなら、その二契機には本質的な緊張関係があり、ぶつかるがゆえに共に健全に営まれる点にこそ意義がある。学問は社会の全体からの批判を真摯に受け止めながら自らの役割を果たさなければならないが、社会も学問からの批判を通じてはじめて健全なあり方を認識できる。両者はその関係をつねに意識していなければならない。

紀元前399年に反社会的な危険人物として裁判にかけられたソクラテスは、自らを祖国アテナイに付けられた「アブ」に喩えた(プラトン『ソクラテスの弁明』30D-31A)。動きの鈍い馬に付きまとい常に目を覚まさせようするアブは、うるさい存在として容易に叩き落とされてしまう。だが、ソクラテスがそうして異議申し立てをして殺されたという事実が、社会が何を必要としているかを、歴史において私たちに示してくれた。社会、つまり私たちが日々を生きる現場には、学問、とりわけ哲学が不可欠である。それなしに人間として善く生きることは成り立たない。仮に、単に生物として生存することは残るとしても。

(2021年1月18日)