学問と社会の現在とこれからを考える vol.8
「日本学術会議会員任命拒否問題」の歴史的構造
—— 戦後日本の科学技術政策と学術会議
死生学・応用倫理センター 小松美彦


1. 新型コロナウイルス感染症と学術会議会員任命拒否問題

2021年3月25日現在、私たちは未だ先行きの見えぬパンデミックの渦中にあります。そのような日本において、あらためて確認すべきは、新型コロナ対策担当大臣が経済再生担当大臣の兼任だということです。この事実が、既に46万人の入院患者と9000人近くの死者を出したコロナ禍に対する日本政府の基本姿勢を象徴しているといえるでしょう。政府にとって何よりも肝腎なのは、私たち国民の命ではなく経済だと目されるのです。

日本学術会議会員の任命拒否問題に関しても、着目すべき同様の事態があります。学術会議の諸般を取り扱うのが科学技術政策担当大臣だということです。つまり、学術は学術それ自体としてではなく、科学技術政策の一環として位置づけられているのです。しかも、この位置づけでは、学術一般と科学技術との包含関係が私たちの通常感覚とは逆なのです。ここにこそ、任命拒否問題の本質構造があると思われます。そして、かような構造にあって、特に看過してはならないのは、2020年上半期のコロナ国会(第201回国会)の最終日(6月17日)、「改正科学技術・イノベーション基本法案」が可決成立したことです。前政権は、“未曾有の”状況であるにもかかわらず、予定どおりの日程で国会を早々と閉幕しましたが、この法案を計画にたがわず確実に通して終了したのでした。

そもそも、旧来の「科学技術基本法」(1995年)とは、科学技術を国家資本と捉え、経済発展のために国家の支配下に置くことを企図したものでした。いわば真理探究としての科学研究も、その応用としての技術研究も、研究者個々人の自由に委ねるのではなく、国家による統制が図られたのです。つまり、自然科学に関しては、研究者の自主独立という意味での学問の自由も、国家統制からの自由という意味での学問の自由も、科学技術基本法の制定によって、それと気づきにくいまま、なかば剥奪されていたわけです。

こうして四半世紀が経ち、かかる既定方針を根本的に強化すべく、科学技術基本法が「科学技術・イノベーション基本法」へと改定されました。その最大の特徴は、自然科学だけではなく、人文科学をも法律に組み込んだことです。人文科学もまた経済活性のための道具として位置づけられたと見て大過ないでしょう。そして、この事態は、人文科学からも学問の自由が制度的になかば剥奪されたことを意味しているでしょう。

報道によると、任命を拒否された学術会議会員候補6名は、すべて「安保法制」「特定秘密保護法」「共謀罪」などに反対した者だとされます。ただし、同種の任命拒否は2016年と18年にも起こっていました。つまりは、学術を国家の統制下におく既定路線は貫かれており、それが前政権と現政権において一挙に前面浮上したに他ならないでしょう。したがって、考えるべき真髄は、コロナ禍と任命拒否問題のいずれにせよ、経済を最優先させる国策的な構造です。しかしながら、それはこの四半世紀にいきなり形成されたものではありません。そこで、戦後の日本国家の基幹政策と学術会議の歴史を概括的に振り返ってみます。

2. 戦後の科学技術政策と学術会議の概略史Ⅰ —— 1945〜1971年

巨視的に見るなら、そもそも戦後の日本の復興政策は、何はともあれ経済発展であり、そのための科学技術振興でした。ただし、そこにはGHQ、日本の政財界、批判勢力(主に日本共産党)、これら三者間の複雑な関係と、それを取り巻く国際情勢があります。

まず、今からすると意外なことですが、戦後しばらくの間、GHQと共産党は蜜月状態にありました。GHQの占領政策 —— 国家主義・軍事技術・独占資本(金融資本と産業資本の合体)・大地主制・天皇制などの解体と、民主主義・科学精神の導入 —— が、共産党の二段階革命論の第一段階(民主主義革命)と一致していたからです。こうして1946年1月には、科学者の戦争協力・責任を省み、民主主義科学の樹立を目指す「民主主義科学者協会」(民科)が共産党の影響下で設立されましたが、その設立大会では、GHQのW.ヒックスが祝辞を、また、獄中不転向の宮本顕治が来賓挨拶を、ともに述べているのです。

しかし、1947年3月、トルーマン米国大統領によって、世界規模での共産主義掃討政策が発表され、さらには日本を「共産主義の防波堤」「極東の軍事工場」にする方針が打ち出されました。他方、同年9月には、ソ連を主軸に「コミンフォルム」(各国共産党の連合体)が結成され、東西の緊張関係が高まります。翌48年には、朝鮮民主主義人民共和国も誕生しました。「日本学術会議」が創設されたのは、このような状況下の49年1月のことです。同月には、衆院選挙で共産党が35議席を獲得しています。

学術会議は、前年12月に人文・社会・自然系などの研究者間の選挙によって210名の会員を選出しており、約30名が共産党系の研究者だったとされています。そのような学術会議の最大の特徴は、科学や技術の方策について政府に勧告する権限を有することでした(「日本学術会議法」第五条)。つまり、国家による科学技術の軍事利用などに歯止めをかける機能を学術会議が制度的に担っていたと見てよいでしょう。

国内外の政治情勢はさらに展開します。49年7月にGHQによりレッドパージが示唆され(本格実施は50年6月)、また、10月に中華人民共和国創立。翌50年1月には、共産党がGHQとの協調路線をコミンフォルムから批判され内部分裂。主流派(所感派)は武闘路線に転換します。それゆえ、GHQにとっては、共産党はもとより、民科や学術会議も取り締まりや警戒の対象になりました。そして同50年6月、朝鮮戦争が勃発し、日本は米軍の軍事物資などを生産することで、戦争特需を迎えました。科学技術の、わけても軍事技術の開発・生産が飛躍的な経済活性をもたらすことを、日本は実体験したわけです。

ただし、科学技術振興が本格的に開始されるのは1956年のことです。長期的な視野から方策を体系化することが必須と考えられ、「原子力委員会」(56年1月)、「科学技術庁」(同年5月)、「科学技術関係閣僚懇談会」(57年11月)などの組織が次々とつくられ、この流れで59年2月、首相の諮問機関「科学技術会議」が設立されました。今日の「総合科学技術・イノベーション会議」の母体であり、これが決定的な意味をもちます。というのは、「科学技術会議設置法」によれば、首相は科学技術政策に関して、科学技術会議への諮問を義務づけられており、かつ答申を尊重しなければならないのですが、科学技術会議の最高責任者は他ならぬ首相であり、諮問するのも答申するのも同一者だからです。すなわち、科学技術会議とは、科学技術政策の権限を首相に一極集中させる制度的な装置なのです。それは同時に、学術会議の力を微弱化させ、先述の勧告権限を骨抜きにするものでした。

このような科学技術会議が基盤となり、安保問題の裏面で科学技術政策が審議され、60年10月に向こう10年間の方針が決定されました。それは、経済に直結する技術を科学よりも重視し、「新領域の開拓」、「新技術の創出」を目指したものです。また、「人文系科学部門における研究に協力をもとめ」と謳われ、今後の検討課題として「科学技術基本法」の制定が挙げられました。そして、とりわけ重要な事態は、この科学技術政策が「所得倍増計画」と連動していたことです。こうして1960年代、日本は技術発展と重工業化を通じて高度経済成長を遂げました。しかし、激甚な公害をも産み出しました。その間、科学技術基本法の制定は、省庁間や議員間の主導権争いによって空中分解。学術会議は独自案を提出するなど、基本法の制定そのものには積極的であったといえます。

3. 戦後の科学技術政策と学術会議の概略史Ⅱ —— 1971〜1995年

1971年4月、科学技術会議への諮問を通じて、新たな10年計画が策定されました。それは、海外の天然資源の確保を目指しつつ、国家が選別した研究に予算の大量投入を図る点に特徴があります。また他方では、公害を意識せざるをえず、開発すべき「自前の科学技術」として、「環境科学技術」、「ソフトサイエンス」(情報科学・行動科学・社会生態学)、「ライフサイエンス」(バイオテクノロジー)が掲げられました。ここで注目すべきは、この10年計画(答申)が公表された日、与党(自由民主党)が、学術会議を「政治的に偏向している」として、措置の方針を発表したことです。その背景には、学術会議会員の黒田了一が社会党・共産党の共闘で大阪府知事に当選したこと(71年4月)、また、同じく社共共闘の美濃部亮吉が、学術会議前会長の朝永振一郎の応援を得て、東京都知事の再選を果たしたこと(同月)がありました。かように学術会議潰しが画策されたわけですが、学術会議は新左翼系・全共闘系の学生や研究者からは、その非先鋭性が批判されていました。

72年、中曽根康弘科学技術庁長官の主導で、先の「自前の科学技術」のうちライフサイエンスを重点化する路線がとられ、大規模予算が示されます。ただし、目当ての遺伝子組換え技術は、その危険性と倫理的問題から世界的にモラトリアム期間が設けられ、また、それに替わるバイオ技術も存在しなかったため、計画は達成されませんでした。しかし、82年に中曽根内閣が誕生すると、起死回生へと転じます。首相は先進国首脳会議でライフサイエンスの振興を提唱して世界的な主導者となり、国内的にも84年、科学技術会議による答申が出され、当の方針が確立しました。この経緯で注視すべきは、学術会議は基本的に当該路線に乗っており、他方、70年代には「テクノロジー・アセスメント」(新たな科学技術の導入を経済効率や安全性の点から事前評価する方式)が、80年代には「生命倫理」が、新規技術の導入を補完するものとして政財界によって取り入れられたことでした。

4. 1995年以降の状況と私たち

ライフサイエンス路線の推進期はバブル期と重なり、莫大な国家予算が投じられました。ところが、周知のように、バブル経済は90年代初頭に崩壊します。そこで経済を抜本的に立てなおすべく、「科学技術創造立国」が標榜され、1995年、“懸案の”「科学技術基本法」が前述のように制定されたしだいです。

その最大の特徴は、同法が「基本法」である点です。つまり、科学技術基本法は科学技術政策のいわば憲法にあたり、関連法や具体的な政策のすべてを規定する性格を有することです。たとえば、この法律のもとに5年ごとの「科学技術基本計画」が策定され、大学や研究機関はそれに制約されてきました(2021年3月、「第6期科学技術・イノベーション基本計画」がまとめられ、5年間で総額30兆円の政府予算目標が掲げられました)。

科学技術基本法の他の特徴としては、活動主体が「科学技術会議」(2001年「総合科学技術会議」、2014年「総合科学技術・イノベーション会議」)であること、しかも、その構成員の大半は閣僚と財界人であり研究者が僅少なこと、そして、科学技術会議の最高責任者が首相である以上、やはり科学技術政策は中央集権化されていることです。また、同法制定の先導者である尾身幸次衆院議員(自民党、1956年通産省入省)は、その著書『科学技術立国論 —— 科学技術基本法解説』(読売新聞社、1996年)において、欧米の基礎技術を利した応用技術ではなく、独自の「創造的技術」の創出を強調しています。さらに付言するなら、この時期、「科学技術社会論」(STS)という新たな学問分野が導入されました。むろん、そこにはさまざまな立場の研究者が関わっていますが、大局的にはかつてのテクノロジー・アセスメントや生命倫理と同様の意味を有した導入といえるでしょう —— 2000年代半ば以降、同様の主旨で「サイエンスカフェ」が徐々に増えて今日に至ります。

さらには、上述のように2014年、「総合科学技術会議」は「総合科学技術・イノベーション会議」へと組織変更されましたが、それは学術・大学政策と連動しています。たとえば、下村博文文科大臣によって2015年に発せられた通達、「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて(通知)」との連動です。そこでは、各大学が「組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めること」と明記されていました。すなわち、経済発展やイノベーション創出に直結しない分野の廃止が暗示されたといえます。この通達は多くのマスメディアから批判され、下村大臣は弁明しましたが、全国の大学で人文・社会系が、特に文学・語学系(教育学系では、教員免許取得に関係しない分野)が切られる傾向は否めません。

かくして、2020年1月28日、学術会議は、「科学技術・イノベーション基本法」の制定に向けた総合科学技術・イノベーション会議の報告書(2019年11月20日)に対して、「幹事会声明」を発出し、そこにはこう明言されていました。「人文・社会科学を科学技術基本法の中に積極的に位置づけるものとした報告書は、学術の総合的発展及び現代社会の諸課題の総合的解決に資するものであり、日本学術会議としてもこれを歓迎したい」。あろうことか、学術会議自体が同法への人文・社会科学の取り込み —— それは1960年からの国家の大望でした —— を歓迎しているのです。人文・社会科学のうち、経済発展やイノベーション創出に直結しない分野の切り捨ての意図が内包されているにもかかわらずです。

以上、学術会議会員の任命拒否問題について、75年の戦後史の観点から概観しました。何事も構造的かつ歴史的に見ることが肝要だと思われます。そして学生諸君には、「私たちがいかなる時代を生きているのか」を常に意識してもらいたいと切望します。

(2021年3月25日)